富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる

お金と循環
何十年も働き、売上をつくり続けても、資産は思ったほど増えない。一方では、すでに大きな資産を持つ人ほど、その資産からさらに所得を得ている。これを能力や努力、投資意識の差だけで片づけると、どうしても辻褄が合わない。資本主義には、働いて稼ぐ者と、持っている資産にも稼がせる者とで、お金の増え方そのものが違うという冷たい仕組みがある。

資本主義で格差が広がるのは、努力の差だけではない。資産を持つ者には資産が次の所得を生み、時間と複利がその差を広げる。売上や年収の大きさより、働いて生み出した価値が自分の人生を支える資産として何を残したかが、人生後半の経営を分ける。

努力より資産が富を増やす資本主義

格差を広げているのは、才能や努力の差だけではない。働かなければ増えない所得と、持っているだけで新しい所得を生む資産では、そもそも増え方が違う。

何十年働いても、手元の資産が思うほど増えない。それでも「もっと稼げば豊かになれる」と考えてしまう。だが、売上や年収だけでは、資本主義で広がる格差の理由は説明できない。働いて得るお金と、すでに持っている資産から生まれるお金には、最初から違う力が働いている。

毎月きちんと働き、売上をつくり、税金も社会保険料も払っている。それを10年、20年と続けてきた。ところが、ふと通帳を見れば、働いた年月ほどには資産が増えていない。世の中では株価が上がり、企業利益が増え、「経済は成長している」と報じられる。それなのに、自分の財布だけは景気のいい話から取り残されている。この違和感は、気のせいではない。
働けば収入は得られる。だが、収入がそのまま資産になるわけではない。給料なら生活費が出ていく。事業なら仕入れ、家賃、人件費、広告費、税金、借入返済が待っている。1000万円稼いでも、1000万円が手元に残る人はいない。入ってきたお金の多くは、今日の生活と事業を維持するために消えていく。長く働いたという事実と、長く資産を増やしたという事実は、まったく別の履歴である。
ここを混同すると、「もっと稼げば豊かになれる」という答えに向かいやすい。売上が足りないから売上を増やす。利益が足りなければ仕事量を増やす。その方法で収入は増えるとしても、増えた分まで事業や生活へ使えば資産はほとんど変わらない。売上の桁が一つ増えても、翌月にはまた同じように働かなければならない。なかなか皮肉な話である。仕事は増えたのに、働かなくてよい時間は増えていない
資本主義でなぜ格差が広がるのかを考えるとき、年収や能力の差だけを見ていると、この部分を見落とす。高い所得を得ることは有利だが、富をつくる仕組みは所得額だけでは決まらない。そこで得たお金のうち、どれだけが後まで残り、さらに価値を生むものへ変わったかで、その後の差が生まれる。
小さな会社を長く営んできた人ほど、この矛盾は見えにくい。毎日仕事があり、売上も立っていれば、経営は動いている。顧客が増え、設備が増え、会社の規模が大きくなれば、前へ進んでいる実感もある。ところが、事業を止めた瞬間に入金まで止まり、自分の生活を支えるものがほとんど残っていなければ、仕事を続けた年月のすべてが資産になったとは言えない。
働く力は、その年の所得を生む。資産は、翌年以降にも価値を残す。ここには小さく見えて大きな違いがある。何十年働いたかだけでは、資産格差の正体は見えない。見るべきなのは、働いて得たお金が、使われて消えたのか、それとも後にも残るものへ変わったのかという、その行き先である。

労働と資産の増え方を比べる

ところが、資産を持つ側では、お金の動きが違う。株式を持てば配当を受け取り、不動産を貸せば賃料が入る。債券には利子があり、事業への出資には利益の分配がある。価格が上がれば、保有資産そのものの価値も増える。本人がその収入を得るために、毎月同じ時間だけ働く必要はない。労働で得る所得とは、入口から仕組みが違っている。
ここで見落としがちなのは、「金持ちはたくさん持っている」という現在の差だけではない。持っている資産が、次のお金を生む点である。1000万円の資産を持つ人と、資産がほとんどない人との差は、1000万円で固定されない。資産から収益が生まれ、その収益を使わずに残せば、次はさらに大きな元本から収益が生まれる。資産は倉庫に積んである札束ではない。資本主義の中では、所得を生み出す装置として働く
反対に、資産をまだ十分に持たない側は、まず自分で働いて所得をつくらなければ始まらない。そこから生活費を払い、税や社会保険料を払い、事業を営んでいれば経費も払う。その残りを貯めて、ようやく資産を持つところへ進める。スタートラインが違うというより、走っている競技そのものが違う。片方は働いた残りから元本をつくり、片方はすでにある元本から新しい所得を受け取っている。
それなのに、社会ではこの違いがしばしば「投資する人としない人の差」「金融知識がある人とない人の差」として片づけられる。なんとも都合のいい説明だ。月末に10万円残る家計と、家賃や食費を払えばほとんど残らない家計に、同じ顔をして「投資を始めればいい」と言っても条件は同じではない。小さな会社でも同じだ。毎月の利益を借入返済や設備更新へ回さなければ会社が持たない経営と、余剰資金を事業外へ移せる経営では、資産形成の余地が最初から違う。
形式の上では、株式市場は誰にでも開かれている。証券口座も作れる。少額から投資できる制度もある。だが、「参加できる」と「同じ条件で参加できる」は別の話である。生活を守る現金が十分にある人は、相場が下がっても待てる。さらに余裕があれば、安くなった資産を買うこともできる。生活費まで圧迫されていれば、損失を抱えたまま何年も待つ自由そのものがない。自由競争は、参加資格を平等に配っても、耐えられる時間までは平等に配ってくれない。
ここに、資本主義の冷徹さがある。誰かが悪意を持ってボタンを押している必要はない。それぞれが合理的に動くだけで差は広がる。資産を持つ人は、得た利益を再び資産へ回す。それは合理的である。企業は利益を求める。それも合理的である。生活に余裕のない人は、今日の支払いを優先する。それも当然である。だが、その合理的な選択が積み重なると、持つ者には次の利益が集まり、持たない者は元本をつくるところから何度でも始めることになる。
ここまで来ると、「もっと努力すれば追いつける」という言葉の雑さが見えてくる。努力は所得を増やす助けになる。技術や経営判断も結果を変える。しかし、働いて得る所得だけで走る側と、資産まで所得を生む側を、努力量だけで比べるのは無理がある。片方には、自分の労働に加えて資産まで働いている。
そして、この違いは一度きりで終わらない。資産が生んだ所得が次の資産へ回れば、翌年はさらに大きな元本から始まる。持たない側は、翌年もまた自分の時間を使って所得をつくる。時間がたつほど、この差がはっきりしていく。
富める者はますます富む。この言葉が残酷なのは、ただ金持ちへの悪口だからではない。資産を持つ者には、資産そのものが次の所得を生み出す仕組みがあるという現実を、そのまま言い当てているからである。では、その小さな差がなぜ何十年という時間の中で大きな格差へ変わっていくのか。そこには、元本と収益と時間がつくる、資本主義特有の増え方がある。

資産が資産を生む残酷な複利構造

資産は利益を生み、その利益がまた資産になる。元本が大きいほど同じ利回りでも増える金額は大きくなり、時間までが富の差を広げていく。

資産の差が厄介なのは、そこで止まらないからだ。持っている金額が大きいほど、同じ収益率でも生まれる金額は大きくなる。その利益が再び元本へ戻れば、時間までが差を広げる側へ回る。公平に見える同じ利率の裏で、資産はさらに資産を呼び込んでいく。

資産を持つ者に、なぜ時間まで味方するのか。その仕組みを考えるとき、避けて通れないのがトマ・ピケティの「r>g」である。rは資本から得られる収益率、gは経済の成長率を表す。ピケティ自身も後の論文で明記しているように、r>gという不等式だけで格差のすべてが決まるわけではない。資産の保有状況、貯蓄、相続、収益率の違いなどが加わって、現実の資産格差がつくられる。だが、すでに大きな資産を持つ者に有利な条件が長く続くとき、rとgの差が資産格差を拡大させる力になることは、ピケティ以後の研究でも論じられている。
この式を「働くより投資したほうが儲かる」と読むと、話が安っぽくなる。そんな投資指南のために、300年近い資産と所得の歴史を調べたわけではない。もっと厄介な現実を突きつけている。経済全体がゆっくりしか成長しない時代でも、過去に蓄積された資本が比較的高い収益を生み続ければ、すでに持っている資産の存在感が年々大きくなる。昨日までの富が、今日の所得を生み、今日の所得が明日の富になる。市場は過去の資産にまで給料を払い続けるのである。
ここには、努力を美徳としてきた社会には都合の悪い事実がある。朝から夜まで働く。新しい技術を覚える。客を増やす。経営を改善する。そうして生み出される経済の成長より、すでに積み上がった資本のほうが速く増える状態が続けば、「よく働いた者が豊かになる」という物語だけでは説明がつかない。市場は勤勉さに勲章を配る場所ではない。資本があれば、その資本へ収益がつく。実に冷徹で、実に資本主義らしい仕組みである。ピケティも、市場競争それ自体が社会的公正や民主的価値を保証するものではないと論じている。
しかも、元本が大きくなるほど、この差は容赦なく金額へ現れる。仮に同じ年3%の収益率なら、100万円から生まれる収益は3万円、1億円なら300万円である。頭の良さも努力量も関係ない。ただ元本が100倍なら、同じ3%でも受け取る金額が100倍になる。300万円を使わず再び資産へ回せば、次は1億300万円が元本になる。100万円の側も103万円にはなるが、両者の金額差は前年より広がっている。
百分率だけを見れば「どちらも3%」で公平に見える。ここが数字のいやらしいところだ。同じ利率を与えることと、同じ結果になることはまるで違う。市場は一律の3%を提示するだけでよい。その瞬間、すでに大きな元本を持っている側へ、はるかに大きな金額が流れる。誰かが裏で細工をしなくてもいい。むしろ、同じ条件を適用するだけで差が広がる。形式的な平等が、資産の差をそのまま増幅する。なんともよくできた仕組みである。
そして資産から得た300万円は、労働で得た300万円とは時間の使い方が違う。300万円を労働で得るには、何日、何百時間という仕事が必要になる。資産から生まれた収益では、保有者が同じ時間を働いたかどうかは直接の条件にならない。ここで初めて、「富める者はますます富む」という言葉の重さが見えてくる。富が大きいから裕福なのではない。大きな富そのものが、次の富をつくる力を持っているらである。
この構造に怒りを感じるのは自然である。長く働いてきた側から見れば、「もっと努力しろ」と言われ続けた横で、資本には資本だけが持つ増殖の仕組みが用意されていたからだ。努力に意味がないという結論にはならない。努力は所得を生み、事業を支え、最初の元本をつくる力になる。だが、努力だけを万能の答えにする社会の説明は、あまりにも雑だ。資本主義は、努力の量ではなく、持っている資本の量に報いる。この現実を外したまま格差を語れば、最後にはまた「豊かになれない本人が悪い」という馬鹿馬鹿しい自己責任論へ戻ってしまう。

複利と資産の増え方を考える

元本の差に時間が加わると、資産格差はさらに厄介になる。仮に100万円を年3%で運用し、得た収益をすべて再投資したとする。税金や手数料、価格変動を考えない単純計算なら、40年後には約326万円になる。元本が1000万円なら約3262万円である。3%という数字だけを見れば大した差には見えない。それでも40年という時間を通すと、最初の元本が次の元本をつくり、その元本がまた次の利益を生む。
複利は魔法でも投資商品の宣伝文句でもない。ただの算数である。だからこそ冷酷だ。資産を持っている期間が長いほど、その人は自分の労働とは別の場所でお金を増やす時間を持てる。まだ元本を持たない側では、その40年の最初の何年か、あるいはもっと長い時間を、生活費を払いながら元本づくりに使わなければならない。同じ40年でも、最初から複利が働く40年と、複利を始めるための金をつくる40年は同じではない。
ここを無視して「早く投資を始めた人が得をした」とだけ言えば、話はずいぶん簡単になる。簡単すぎて、ほとんど嘘に近い。20代から毎月余剰資金を投じられる人と、住宅費や教育費、病気、家族の事情、事業の資金繰りで50代まで余剰資金を持てなかった人を、同じスタート地点に並べることはできない。資本主義は時計だけを平等に進める。その時間を複利へ渡せるかどうかまでは面倒を見ない。
しかも、株価が上がったとき、その利益が社会全体へ均等に配られるわけでもない。株式を多く持つ者ほど、値上がりの恩恵も配当も大きく受け取る。米国で株式保有が上位層へ大きく集中している事実は、この構造を分かりやすく示している。株価指数が最高値を更新したというニュースを見ても、株式をほとんど持っていない家計の資産が同じ割合で増えることはない。市場全体が豊かになった数字と、国民全体が豊かになった現実は別物である。
ここにも、資本主義の建前と現実のずれがある。「経済が成長すれば、その果実はいずれ広く行き渡る」と言われてきた。だが、資産価格の上昇によって増えた富は、まずその資産の所有者へ帰属する。株を持たない人の給料が、株価上昇と同じ割合で自動的に増える仕組みはない。土地価格が上がっても、土地を持っていない人には資産増加ではなく、住宅取得費や家賃の上昇として現れる。資産を持つか持たないかで、同じ価格上昇が利益にも負担にも変わる。
そして市場が下がったときにも、条件差は消えない。十分な現金と複数の資産を持つ側は、値下がりを耐えることができる。生活を守る金まで市場へ入れる必要がないからだ。資金に余裕があれば、安くなった資産を買う側にも回れる。反対に、収入減や急な支出が重なれば、価格が戻るまで待ちたくても現金化しなければならない。暴落は全員に同じ値下がり率を示しても、全員に同じ選択肢を与えない。
ここで「金融知識があれば解決する」と言い出すと、また個人の責任へ話が戻る。知識は役に立つ。しかし、知識は家賃を払ってくれない。金融教育を受けても、月末に余剰資金がなければ元本は生まれない。相場の仕組みを理解していても、明日の支払いが迫れば10年待つことはできない。資産運用には知識だけでなく、損失を抱えても生活を壊さずに待てる余裕が要る。この当たり前の条件だけが、投資の成功談では妙に小さく扱われる。
富める者がますます富む構造は、どこかに悪人がいて富を奪っているから成立するのではない。元本が収益を生み、収益が元本へ戻り、長い時間がその差を増幅する。その市場へ入るための余剰資金まで均等ではない。それぞれが合理的に動いた結果として、資産を持つ側へさらに資産が集まりやすくなる。だから厄介なのである。
そして、この仕組みを社会の遠い話として眺めているだけでは、自分の現実は見えてこない。事業を営み、毎月売上をつくり、何十年も働いてきた人であっても、その利益が次の所得を生む資産へ変わっていなければ、同じ場所を走り続けることになる。会社を持っているという肩書きだけでは、この資本主義の線引きを越えたことにはならない。
【卦象ミニコラム】
増やすより蓄える局面
卦象:山天大畜|外へ使う力を内に蓄える
変化|外へ増やす力を内へ蓄える局面
山天大畜は、大きな力をそのまま外へ放たず、内に蓄えて次へ備える卦である。売上や仕事量を増やし続ける経営では、力は毎年その場で使われる。利益まで設備や固定費へ戻せば、会社は大きくなっても本人に残る資産は増えにくい。蓄えるとは止まることではない。働いて生まれた価値の一部を、次の所得や自由を生む形へ移すことだ。増やす力と残す力を同じものとして扱うと、会社だけが育ち、人生の残高が置き去りになる。

会社は育つが社長の自由は残らない

会社を持ち、何十年も売上をつくっていても、働くのをやめた途端に収入が止まるなら、社長の人生を支える資産はまだ十分に育っていない。

会社を長く続け、売上もつくってきた。それでも自分が休めば収入が細るなら、会社の歴史と経営者本人の自由は別物である。利益を会社へ戻し、時間まで仕事へ差し出してきた結果、会社には30年が残っても、本人には30年分の余裕が残らないという矛盾が生まれる。

会社を持っている。法人登記もしている。毎年決算を組み、税金を払い、何十年も商売を続けてきた。それでも月が変われば、また営業しなければならない。問い合わせに返事をし、見積もりを出し、商品をつくり、納品し、請求書を送る。手を止めれば、その先の売上も止まる。会社という器を持っていても、中で動いているのが自分の労働だけなら、所得の仕組みは思っているほど資本家側には移っていない。
「経営者なのだから労働者とは違う」と考えたくなる。実際、価格を決め、仕事を選び、利益を残せる点では雇われて働く人とは違う。だが、肩書きは収入を生んでくれない。社長という名刺を机に置いて休んでいても、それだけで売上が入るわけではない。自分が営業担当であり、商品開発者であり、技術者であり、顧客対応まで担っている小さな会社では、会社を所有していても、自分の時間を売っている構造は残っている
この現実は、商売が順調なときほど見えにくい。予定表が埋まり、毎月売上が立ち、取引先も途切れない。忙しいから経営はうまくいっているように見える。ところが、1か月仕事を止めたときのことを考えると正体が出る。請求できる仕事が減り、新しい受注も止まり、翌月以降の入金が細る。30年続いた会社でも、社長が30日止まっただけで売上が崩れる。会社の年齢と、社長が手にした経済的な自由は別の話である。
さらに厄介なのが、利益の使い道である。利益が出れば設備を新しくする。広告を増やす。人を雇う。車を買い替える。借入金を返す。店舗を直す。どれも事業を続けるうえでは筋の通った支出である。会社を守ろうとすれば、利益を会社へ戻す判断はごく自然に出てくる。
それを5年、10年、20年と続けると、妙なことが起きる。店は立派になる。機械も増える。売上も昔より大きい。取引先から見れば、ずいぶん成長した会社に見える。それなのに、経営者本人の通帳には、仕事を大きく減らして、ゆっくり暮らせるだけの資産が残っていない。会社の中には価値が積み上がった。だが、その価値を生み出した本人の人生へは、十分に移っていない。
それでも世間は売上の大きな会社を褒める。従業員が増えれば成長と呼び、店舗が増えれば成功と呼ぶ。銀行も取引先も会社の規模を見る。ところが、銀行口座は社長の見栄に拍手してくれない。年商がいくら大きくても、本人の手元に何も残らなければ、仕事を減らす自由は買えない。休日も増えない。身体がきつくなったからといって、売上のノルマだけが遠慮してくれるわけでもない。
会社を大きくするために利益を戻す。仕事を増やすために設備を増やす。増えた固定費を払うために、さらに売上を必要とする。そうして会社を守るための仕事が増え、社長自身が会社から離れられなくなる。誰も強制していない。それでも経営上は合理的に見える選択を重ねた結果、自分でつくった会社に、自分の時間を毎月買い取られるようになる。なんとも皮肉な構造である。
問題は、会社に利益を使うこと自体ではない。事業を続けるなら投資も必要になる。問われるのは、その利益が何十年ものあいだ一方向にしか動いていない状態である。会社へは戻る。顧客のためにも使う。取引先にも払う。税金も払う。だが、その仕事をつくり続けた本人の将来へ移る分だけが、いつまでも後回しになる。
長く商売を続けた人ほど、この事実は重い。会社を守ってきた年月は消えない。顧客へ届けた価値も消えない。それでも、仕事を止めれば収入まで止まる状態が残っているなら、会社を所有していることと、資産を所有していることを同じにはできない。会社は育った。それなのに、社長が自由になる準備だけが育っていない。そこに、小さな会社が見落としやすい資本主義のもう一つの顔がある。

会社の成長と自由を見比べる

会社へ利益を戻し続ける経営には、もう一つ見えにくい支払いがある。それが時間である。朝から仕事をして、夜になってもメールへ返事をする。休日にも問い合わせが入ればスマートフォンを見る。取引先から電話が鳴れば、「休みだから」と切れるほど商売は単純ではない。明日の売上につながると思えば応じるし、長く付き合った顧客なら無下にもできない。こうして、帳簿には載らない時間が毎月会社へ投入されていく。
経営者の労働時間には、時給という数字がつかない。だから厄介なのだ。従業員の残業なら時間として記録される。外注なら請求書が来る。ところが社長が夜に2時間働いても、休日を半日使っても、それは経費として表に出ない。会社から見れば無料で追加された労働である。売上が増えれば結果だけは残るので、その時間がどこから出てきたのかは忘れられる。小さな会社では、社長の人生が最も安い経営資源として扱われやすい
これほど馬鹿馬鹿しい話もない。会社を守るために働く。顧客を守るために働く。従業員がいれば給料を守るためにも働く。取引先への支払いも遅らせられない。責任を果たそうとすれば、最後に削られるのは社長自身の時間になる。世間はそれを「経営者なのだから当然」と簡単に片づける。だが、その当然を20年、30年続けた代価を、誰が引き受けるのか。会社でも市場でもない。最後は本人の身体と残り時間で払うことになる。
売上が必要だから仕事を増やす。仕事が増えたから休めない。休めないから仕組みを変える時間もない。目の前の案件を処理しているうちに月末になり、また翌月の売上をつくらなければならない。商売が止まっているわけではない。むしろ忙しい。だから、この循環は経営不振より見えにくい。忙しさは、経営がうまくいっている証拠にも、経営者が抜けられない証拠にもなる。
資産を持つ側では、時間が経過すること自体が価値を生む条件になり得る。前に投じた資本が翌年も働くからだ。ところが、自分の労働へ強く依存した会社では、一年前に働いた時間が今年の売上を自動的につくってくれるわけではない。去年1000時間働いたから、今年は1000時間休めるという仕組みにはならない。今年の売上には、今年の営業、今年の納品、今年の判断がまた必要になる。資本には複利があるのに、社長の身体には複利がない。疲労を積み上げても、来年使える時間が増えるわけではないのである。
ここで、何十年も商売を続けた結果を改めて見ることになる。累計でいくら売ったか。何人の顧客と取引したか。何店舗まで増やしたか。それらは事業の歴史として意味がある。しかし人生後半に入れば、別の問いが避けられなくなる。あれだけ働いて生み出した価値は、いま何として残っているのか。
現金が残っている。金融資産になっている。自分が毎日動かなくても売れる商品がある。長年書きためた文章が顧客を連れてくる。信用が紹介を生む。そうしたものは、過去の仕事をその場で消して終わらせず、後の時間へ価値を渡している。反対に、売上をつくっては使い、また売上をつくっては使うだけなら、数字がどれほど大きくても、毎年同じ場所から走り直すことになる。
ここには、長く働いてきた人ほど愕然とする現実がある。社会は「働け」と言う。経営の世界は「成長しろ」と言う。売上を増やし、会社へ再投資し、顧客を増やし、さらに働くことを成功と呼んできた。その結果、会社には30年の歴史が残ったのに、本人には30年分の自由が残っていない。それを最後になって「老後の準備は自己責任です」と片づけるなら、ずいぶん酷い話である。
責任を全部社会へ押し返しても現実は変わらない。自分が選んだ仕事もあり、自分で決めた支出もある。断れた仕事もあっただろう。それでも、売上を増やすことばかりが経営として評価され、本人へ何が残ったかをほとんど問わない成功観が、この状態を後押ししてきたことは間違いない。会社を残すことばかり考えて、会社をつくった人の人生を残さない経営はどこかがおかしい
何十年働いたかを誇るだけでは足りない。年商を眺めるだけでも足りない。仕事によって生み出した価値が、会社の外へ出たあと、本人の人生に何として残ったのか。そこまで見なければ、「富める者はますます富む」という構造と、自分の商売がどこでつながっているのかは見えてこない。問われるのは、働いた量ではなく、働いて生み出したものが時間の先へ何を残したかである。

年商より自分の人生の残高を見よう

年収や売上が大きくても、最後に何も残らなければ豊かになったとは言いにくい。見る物差しを、稼いだ額から人生に残ったものへ移す。

年商、店舗数、従業員数。経営の世界は増えた数字を成功として褒める。だが人生後半に入れば、その物差しだけでは足りない。何十年も売上をつくった結果、仕事を減らしても自分を支えるものが残っているのか。会社の成長と本人の豊かさを同じ数字で測ると、肝心なものを見失う。

売上3000万円。数字だけを見れば、そこそこ立派な商売に見える。そこへ「創業30年」「従業員5人」「自社店舗」といった言葉が並べば、さらに成功らしく見える。経営の世界は、こういう大きな数字が好きである。売上が増えれば成長、店舗が増えれば発展、会社が大きくなれば成功。ずいぶん分かりやすい物差しだ。だが、その3000万円のうち、最後に経営者本人へ何が残ったのかとなると、急に話は曖昧になる。
売上3000万円と、資産3000万円はまるで違う。3000万円売っても、仕入れに1200万円、人件費に700万円、家賃や設備、広告、諸経費に800万円を使えば、残る利益は300万円である。その300万円も借入返済や翌年の運転資金へ回せば、本人の金融資産にはほとんど移らない。これは仮の数字だが、仕組みは単純である。どれだけ大きなお金を通過させたかと、どれだけ自分に残ったかは別の数字だということだ。
それなのに、商売では通過した金額のほうが目立つ。「年商1億円」と聞けばそこそこの会社だと思うが、「そのうち経営者の人生へいくら残ったのか」と尋ねる場面は少ない。売上は看板になる。従業員数も店舗数も看板になる。だが、看板は老後の生活費を払わない。年商の桁は、休みたい日に代わりに働いてもくれない。売上は会社の大きさを語っても、経営者の自由までは語らない
これは、長く事業を営んできた人ほど厄介な錯覚になる。売上を増やすことに何十年も力を注いできたからだ。前年より売る。顧客を増やす。設備を入れる。人を雇う。その積み重ねで会社をつくってきた。そこには間違いなく価値がある。しかし、人生後半になってから欲しいものが「さらに大きな売上」ではなく、「仕事を減らしても困らない時間」へ変わったとき、昔から使ってきた物差しが急に役に立たなくなる。
会社の貸借対照表に資産があっても、それだけで安心とも言えない。店舗がある。機械がある。在庫がある。営業車がある。事業を動かすうえでは必要な資産であり、それ自体に価値もある。だが、それらの多くは仕事を続けるために置かれている。店舗を維持するには費用がかかり、機械は古くなり、在庫は売らなければ現金にならない。会社を動かすための資産と、仕事を減らした自分を支える資産は役割が違う
ここを一緒にすると、「会社には資産があるから自分も豊かだ」という妙な話になる。会社の金は会社の金であり、設備は事業のための設備である。それを個人が好きなときに好きなだけ生活費へ使えるわけではない。会社を続けるために必要な金まで自分の老後資金として数え始めたら、会社と人生の財布が頭の中で混線している。
何十年も経営してきた人へ、最後になって「もっと貯めておけばよかった」とだけ言うのも酷な話である。利益が出れば再投資しろ。会社を成長させろ。顧客を増やせ。設備を新しくしろ。そういう経営が長く「正しい経営」として持ち上げられてきた。その物差しに従って会社へ金を戻し続けたあとで、今度は「自分の資産は自分で準備してください」と言われる。会社へ残すことは称賛されても、経営者本人へ残すことは経営の中心としてほとんど語られてこなかった。ずいぶん歪んだ成功観である。
会社を守ることと、自分の人生を守ることは対立しなくていい。だが、同じでもない。会社にいくら残っているか。本人に何が残っているか。事業を続けるための資産か、仕事を減らしたあとにも生活を支える資産か。そこを分けた瞬間、これまで「成功」と呼んできた数字の見え方はかなり変わる。
年商が大きいことを否定する理由はない。利益を会社へ戻すことにも意味がある。ただ、売上が大きいという理由だけで、自分まで豊かになったことにしてはいけない。経営の数字が立派でも、人生の残高まで立派とは限らない。人生後半で問われるのは、会社をどこまで大きくできるかだけではなく、その会社を営んできた時間が、自分の側へ何を残したかなのである。

売上と人生に残る資産を比べる

50代を過ぎると、仕事の見え方が少し変わってくる。若い頃なら、売上が足りなければ働く時間を増やすという方法が使えた。新しい仕事を覚える。営業件数を増やす。休日を削る。多少無理をしても、翌年また取り返せるという感覚もあった。しかし人生後半では、この方法をあと何年続けるのかという問題が出てくる。売上は翌年につくり直せるが、失った時間は仕入れ直せない。
それでも経営の世界は、「足りなければもっと働く」という答えを簡単に差し出す。売上が落ちたら営業を増やせ。利益が減ったら仕事量を増やせ。新しい事業を始めろ。そうして50代、60代になっても、若い頃と同じ解決方法を繰り返させる。会社の数字だけを見れば合理的である。だが、経営者本人の残り時間まで含めれば話は変わる。売上不足を自分の時間で埋め続ける経営には、いつか必ず時間のほうが足りなくなる。
身体も同じである。老いを脅しに使うつもりはないが、ただ、20代と60代で使える時間も体力も同じではない。それは悲観ではなく条件の違いである。だから人生後半では、「まだ働けるか」だけでは判断できない。「これからも、この仕事へ自分の時間を使いたいか」まで含めなければ、会社の都合だけで残りの人生が決まってしまう。
ここまで何十年も仕事を続けてきた人には、すでに多くのものがある。顧客との信用がある。経験がある。判断力がある。商品がある。文章や知識がある。そして利益を残してきたなら現金や金融資産もある。仕事から生まれた価値は、売上になった瞬間に消えるしかないものではない。後から働いてくれる形へ変えることもできる。
資本主義で富める者がさらに富みやすい理由はまさにここだ。持っている資産が次の所得を生む。その所得をまた残せば、さらに次の価値を生む。ならば事業を営む側も、毎年生み出した価値を全部その年の売上と経費の中で燃やし尽くす必要はない。何十年も働いてきたのに、毎年またゼロから稼ぎ直すしかない経営は、あまりにも割に合わない
社会の仕組みそのものを一人で変えることはできない。資産格差も、相続も、市場のルールも、自分だけでは決められない。だが、自分の仕事から生まれた利益まで、すべて会社へ戻すと決まっているわけではない。売上を増やすことだけを成功と呼ぶ物差しから降りることもできる。会社を大きくするために使うお金と、自分の人生へ残すお金を分けて考える余地はある。
しかし、ここで問題になるのは、長く働いてきた人ほど「まだ足りない」と言われ続けることである。もっと売れ。もっと働け。もっと成長しろ。そして最後になれば、自分の老後は自分で準備しろと言われる。働くときには会社や市場のために資源を差し出させ、終わりが見えてから本人の自己責任へ返す。これほど長く働いた人の人生に十分なものが残らないなら、その成功の物差しのほうを疑うべきである
だから見る場所は、年商の桁だけではない。会社が何店舗になったかでもない。仕事から生まれた価値が、その場で消えたのか、翌年以降にも残るものへ変わったのか。働かなければゼロへ戻るのか、それとも過去の仕事がこれからの自分を少しでも支えるのか。その違いである。
富める者はますます富む。その仕組みを知ることは、富裕層を羨むためでも、誰かを憎むためでもない。資本主義が資産を持つ者に有利な力を与えるなら、自分が働いて生み出した価値を、何へ変えて残すのかという問いから逃げないためである。仕事のために人生があるのではない。人生を支えるために仕事という器がある
これまで働いて生み出してきた価値は、いま自分の人生の何として残っているだろうか。その答えを見るとき、売上や年収だけでは見えなかった、自分の本当の現在地が見えてくる。
【売上より人生に残ったものを見る】
稼いだ金額が大きくても、毎年また自分が働かなければ収入が止まるなら、豊かさの数字は見かけほど強くない。
判断の軸に置きたいのは、年商や会社の規模ではなく、これまで仕事から生まれた価値が何として自分に残っているかである。会社の設備や運転資金だけでなく、仕事を減らしたあとにも生活を支える資産、過去の仕事から収入を生む仕組み、自由に使える時間まで含めて見る。会社だけが育ち、本人が毎年ゼロから稼ぎ直すなら、その成功には見えない代価が残っている。

(内田 游雲)

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