なぜ私は「游雲」と名乗るのか|不自由から生まれた生き方

生き方と運
「游雲」という名前には、雲のように気ままに生きたいという願いだけを込めたわけではない。人生は、努力しても、守っても、こちらの予定を平気で壊してくる。仕事も役割も財産も、握りしめるほど自分を縛るものへ変わる。その現実に何度も叩かれた末に、私は「流れに乗れば、どこかの岸にはたどり着ける」と考えるようになった。游雲は、その生き方を忘れないための名前である。

「游雲」は、思いどおりにならない人生に屈した名前ではない。努力しても外部条件は変わり、守ってきた仕事や財産が自分を縛ることもある。変えられないものへ力を使い果たさず、今も自分を支えるものと、維持するために人生を差し出しているものを分けて見る。

不自由な人生から游雲は生まれた

「游雲」は、最初から自由に生きてきた人の名前ではない。幼い頃から役割を背負い、自分の気持ちを後回しにしてきた人生の、その反対側から生まれた。

自由という名前に惹かれる人が、最初から自由だったとは限らない。幼い頃から役割を背負い、自分の気持ちより期待を優先してきた人ほど、自由を失う痛みを知っている。立派に見える「いい子」の裏で、誰の都合が守られ、誰の人生が後回しにされていたのか。その傷は大人になっても残る。

「游雲」という名前を使っていると、ときどき「どういう意味ですか」と聞かれる。読みは「ゆううん」。「游雲」という言葉そのものには、浮かび流れる雲という意味がある。
私がこの字を選んだのは、「遊雲」ではなく、三点水の「游雲」であることにも理由がある。「游」という字には、およぐ、うかぶ、水の上を動くという意味がある。水に浮かび、流れの中で形を変えながら進んでいく。私には、その姿のほうが自分の生き方に近かった。
自分の力だけで川の流れそのものを変えることはできない。それでも、水の上に浮かんでいれば進んでいく。最初に思い描いた場所とは違っても、流れに乗れば、いつかどこかの岸にはたどり着く。後になって私は、そんな生き方を「游雲」という二文字に重ねるようになった。
ただ、最初から雲のように自由に生きてきたわけではない。むしろ逆だった。私の人生は、かなり早い時期から、自分がどうしたいかより、周囲から何を求められているかが先に決まっていた。
私には6歳上の姉がいる。姉には知的障害があり、一人で生活することが難しかった。私は3歳頃から姉の手を引いて買い物や外出をし、幼稚園に入る頃には、すでに「姉の面倒を見る側」として扱われていた。
3歳や4歳といえば、本来なら自分が手を引いてもらう年齢である。ところが周囲の大人は平然と、「お姉ちゃんをしっかり面倒見なきゃね」と言った。子どもにとって、大人の言葉は重い。それが親戚や親から何度も繰り返されれば、やがて「そうするのが自分の役目だ」と思うようになる。
本来なら守られる年齢の子どもが、守る側へ回されていた
今振り返れば、かなり妙な話である。だが、家族の中で一度「しっかりした子」という役が与えられると、それは美談に変換される。幼いのに偉い。よく面倒を見る。手がかからない。大人にとって都合のいい子どもほど、「いい子」と呼ばれる。その裏で、その子が何を我慢しているかは見えなくなる。
私も一度だけ、幼稚園の頃に耐えきれなくなり、「お姉ちゃんなんか大嫌いだ」と感情を爆発させたことがある。家のガラスを割った。そのとき返ってきたのは、私の苦しさを聞くことではなく、強い叱責だった。
そこで覚えた。感情を出しても、自分が損をする。それなら黙っていたほうがいい。こうして私は、怒らない子どもになった。正確には、怒りがなくなったのではない。怒りを出さないほうが生きやすいと学習した
それは子どもなりの処世術としては合理的だったと思う。家庭の中で生きるには、そのほうが安全だった。だが、合理的だったことと、それが健全だったことは同じではない。
家族のため。姉のため。母を困らせないため。周囲の期待に応えるため。こうした言葉は、一つひとつだけ見れば立派に聞こえる。ところが、それが幼い子どもの人生を覆ってしまえば、話は変わる。
「誰かのため」は、ときに本人の人生を奪う便利な言葉になる
私はその後、勉強で結果を出すようになった。小学校では成績がよく、学年の代表として通知表を受け取ることも続いた。もちろん、本を読むのが好きだったし、勉強そのものも嫌いではなかった。それでも、成績にはもう一つの役割があった。自分の居場所をつくることである。
姉のことでからかわれ、外では孤立し、家でも自分の気持ちより役割が優先される。そんな環境では、「自分には価値がある」と証明できるものが欲しくなる。私にとって、それが成績だった。
結果を出せば、自分の存在を認めてもらえる。この考え方は、ずいぶん長く私の中に残った。
だから「游雲」という名前を、自由人を気取るために付けたわけではない。その名前のずっと手前に、自分の気持ちより役割を先にし、期待に応えることで居場所を守ってきた時間がある。
自由という言葉は、最初から持っていた人間より、長く持てなかった人間のほうが、その重さをよく知っている。

役割から離れて自分の自由を取り戻す

父が亡くなったのは、私が小学校5年生のときだった。夜中に起こされ、「お父さんが死んだ」と告げられた。それでも私は泣くこともなく、通夜では受付を手伝っていた。
周囲から見れば、健気な子どもだったのだと思う。だが、健気だったのではない。すでに感情を表へ出さないことが身についていただけである。
子どもが大人の穴を埋めているのに、それを「しっかりしている」と褒めれば話はきれいになる。面倒をかけない。泣かない。弱音を吐かない。大人から見れば扱いやすい。しかし、扱いやすい子どもと、幸せな子どもはまったく別物である
父が亡くなると、生活は大きく変わった。母は働かなければならなくなり、姉は施設へ入ることになった。長く背負ってきた「姉の保護者」という役目から、私はようやく解放された。
これで自分も普通の子どものように暮らせる。そう思った。
ところが、役割が消えた場所に待っていたのは、自由より孤独だった。母の帰宅は遅くなり、家で一人になる時間が増えた。食事を自分で作り、弁当まで自分で用意して学校へ行くこともあった。
背負うものがなくなれば、自動的に自由になれるわけではない。長く他人の役割を生きていると、それが消えたあと、自分が何をしたいのかさえ分からなくなる。
中学では学校へ行けなくなった。今でいう不登校である。友達もほとんどおらず、家にこもる時間が増えた。当時はインターネットもゲームもない。家にある本を読むしかなかった。
百科事典を読み、父が残した数学や物理の本まで読んだ。そのおかげで、学校へほとんど行かなくても、試験の成績だけは悪くなかった。
皮肉な話である。学校という場所には入れないのに、学校が評価する点数だけは取れた。制度というものは、ときどき人間より数字のほうをよく見る。
出席できない苦しさと、試験で点を取れることは別の問題なのに、成績がよければ「できる子」という箱へ押し戻される。本人の中で何が起きているかまでは、通知表には書かれない。
その頃、頭の中に何度も浮かんでいたのが、
「自分は何のために生きているのか」
という問いだった。
中学生が考えるには少々重たい問いだが、こちらとしては暇つぶしで悩んでいたわけではない。自分の人生だと思えるものが、どこにあるのか分からなかったのだ。
14歳頃から占いにのめり込んだのも、その延長にある。未来の宝くじ番号を知りたかったわけではない。
自分はどう生きればいいのか。なぜ人には、自分で選べないものがこれほど多いのか。それでも人生は、どこまで自分で選べるのか。そんな問いに答えが欲しかった。
「自分の人生を生きたい」という願いは、自分の人生を十分に持てなかったところから生まれた
だから私にとって自由は、好き勝手に振る舞うこととは少し違っていた。誰かから与えられた役割を当然のように背負わないこと。期待に応え続けなければ存在できないと思わないこと。決められた形から外れた途端、自分まで価値を失ったと思わないこと。
後になって「游雲」という名に惹かれた根っこは、この頃にはもうできていたのだと思う。
ただ、子どもの頃に身についた生き方は、家を出れば消えてくれるほど軽いものではない。過去に自分を守った生き方は、そのまま未来の自分を縛る鎖にもなる
そして大人になってから、私は別の現実に何度もぶつかることになる。こちらがどれだけ考え、努力し、準備していても、人生の側から突然、条件を書き換えてくる現実である。

努力しても人生の前提は壊れていく

努力して仕事を立て直しても、地上げ、バブル崩壊、取引先の倒産で前提そのものが消える。人生には、本人の頑張りでは動かせない条件がある。

仕事を立て直しても、土地は売られ、市場は縮み、取引先は倒れる。経営には努力で変えられる部分と、どれだけ頑張っても動かせない条件がある。その境目を無視して、すべてを本人の能力や覚悟へ押し戻すほど、商売も人生も都合よくできてはいない。努力万能論では説明がつかない。

大人になれば、少なくとも仕事くらいは自分で選べる。努力して、考えて、結果を出せば、その先も自分で決められる。若い頃の私は、どこかでそう思っていた。
しかし、現実は、そんなにこちらへ都合よくできていなかった。
大学を出たあと、私は実家の焼肉店を継いだ。ここで一つ断っておくと、私は韓国人ではないし、家系にも韓国との縁はない。両親とも香川県の出身で、母が思いついてフランチャイズの焼肉店を始めた。それが、たまたま私の最初の仕事になっただけである。
もともと順調な店ではなく、客足も落ちていた。そこで韓国宮廷料理を取り入れ、店の形を変えた。雑誌にも取り上げられ、行列ができるまでになった。さらに喫茶店も経営し、一時は3店舗を動かしていた。
自分で考え、工夫し、客に選ばれる店をつくる。商売としては、やるべきことをやっていたと思う。
ところが、そこへバブル期の地上げが来た。主要店舗として借りていた土地を大家が売ることになり、退去を求められた。買い取ることも考えたが、提示された価格では採算が合わない。別の場所へ移れば、改めて大きな投資が要る。
店が潰れたからやめたのではない。客が来なかったからでもない。商売を立て直しても、商売を続ける前提そのものが消えることがある
ここが厄介なのである。経営の話になると、すぐに「工夫が足りない」「もっと努力すればいい」「変化に対応しろ」と本人側の能力へ話を戻したがる。もちろん、工夫も努力も判断も要る。私自身、店を立て直すために散々やった。
だが、土地を売るかどうかは借り手には決められない。地価がどこまで上がるかも、自分一人では止められない。努力には、効く範囲と効かない範囲がある
その境目を無視して、何でも本人の努力へ回収するのは乱暴である。市場も時代も契約条件も無視して、「続けられなかったのは本人の力不足」で片づければ話は簡単だ。簡単だが、現実を見ていない。
私は飲食店を畳み、不動産業へ移った。こちらも最初から順調だったわけではない。むしろ、ひどかった。経験も顧客も人脈もほとんどないまま始めたため、1年半ほど仕事らしい仕事がなく、2千万円近い赤字を抱えた。
そこで、当時集まっていた物件情報を整理し、客の希望に合うものをすぐ探せる仕組みを自分で作った。詳しい仕組みはさておき、今なら不動産情報をデータで整理し検索すること自体は珍しくない。だが、当時の地域の不動産業界では、そうした発想はまだほとんど見かけなかった。
情報をまとめて銀行や知人へ届けると、それまで鳴らなかった電話が鳴り始めた。銀行や住宅会社から紹介も入るようになった。今では当たり前に見えることでも、まだ誰も当たり前だと思っていない時期にやれば、それだけで商売の形を変える力になる。
ここでは、自分の工夫が結果を変えた。自分で変えられるところでは、徹底して変えればいい
ところが、仕事が回り始めると、今度は別のものが見えてきた。地域の人口が減り、売り物件に対して購入希望者が少なくなってきたのである。
営業方法を変えれば、客への届け方は変えられる。データを集めれば、情報の質も上げられる。接客も広告も改善できる。しかし、自社の営業会議で地域人口を増やすことはできない。一社の努力で、市場そのものを都合よく作り替えることはできない
ここを見誤ると、真面目な人ほど危ない。結果が落ちるたびに、もっと働き、もっと広告を出し、もっと工夫し、自分の時間と金を投入する。それでも市場側の条件が変わっているなら、同じ場所で努力量だけを増やしても苦しくなる。
努力は尊い。だが、努力を万能薬にすると、人を簡単に消耗品へ変える
人生も商売も、こちらの意思だけでは動かない。自分で変えられる部分へ力を使うことと、変えられない条件まで力ずくで動かそうとすることは、まったく別の話である。

変わる外部条件を受け止め仕事の形を変える

不動産業から離れることを考え始めた頃、最後のつもりで住宅地の開発を手がけた。建築デザイナーのモデルハウスを建て、その雰囲気と価格で十数戸を販売する計画だった。見学会の滑り出しも悪くなかった。
ところが、販売を始めた直後、近くの町工場が複数の工場を一か所へ集約し、そこで塗装作業まで始めた。計画時には問題のなかった場所に、シンナーのような臭いが漂うようになった。
契約していた客からキャンセルが出た。こちらが広告を工夫しても、営業マンを叱咤しても、近所の工場の操業内容までは変えられない。値段を下げれば臭いが消えるわけでもない。
それでも事業を抱えている以上、こちらは対処するしかない。利益を削り、販売計画を組み直し、少しでも傷を小さくしようと動いた。
その最中に、共同で事業をしていた会社が倒産した。事前の相談などなかった。ある日突然である。
一つの問題へ対処している最中に、別の場所から床まで抜ける
商売を長くやっていると、こういうことが実際に起きる。経営書では、失敗の原因をきれいに分類できる。計画不足、資金管理、リスク対策、判断ミス。後からなら何とでも言える。
だが、現場では原因が一列に並んで順番を待ってくれない。客のキャンセルに対応している横で取引先が倒れ、銀行の態度が変わり、資金繰りまで一気に苦しくなる。
現実の不運は、教科書のように一件ずつ来てくれない
結局、その開発事業では土地を早く処分するしかなかった。利益を守るより、傷口を広げないことが優先になった。共同事業者の倒産を境に銀行からの資金調達も難しくなり、私はデベロッパー事業から手を引いた。
「最後までやり抜く人が偉い」という話を、私はあまり信用していない。最後までやれば立派に見える。しかし、条件が壊れた後まで同じ形を守り、借金と時間と気力を注ぎ込み続ければ、それは責任感ではなくなる。撤退できない自分を、根性という言葉で飾っているだけになる。
壊れた前提に忠義を尽くしても、現実は褒めてくれない
この経験で終われば、まだ話は仕事の範囲だった。ところが、その後もっと厄介だったのが、家族と財産の問題である。
私は若い頃から不動産投資にも関わっていた。ただ、当時は銀行との信用などの事情もあり、母の名義になっている物件がかなりあった。借入には私が保証人として名前を連ねているものもあった。
つまり、母との関係を切りたいと思っても、「では今日から他人です」とはできなかった。人間関係だけなら距離を取れる。電話に出ない、会わない、住む場所を変える。それで済む部分もある。
ところが、そこに不動産、借金、名義、保証が絡むと、感情だけでは切れない。
資産は普通、自由を増やすものだと思われている。確かに、現金や収益を生む不動産は大きな力になる。私自身、その恩恵も受けてきた。
しかし、所有には契約が付いてくる。名義があり、借入があり、管理があり、人との関係がある。条件によっては、その資産を守るために、自分の時間と判断と人生まで差し出すことになる。
価値のある財産が、自分を縛る鎖へ変わることもある
母が高齢になり、物件や金銭の管理が難しくなってくると、問題はさらに複雑になった。私は早く整理したかったが、本人は応じなかった。その後、母は施設へ入り、財産管理にも第三者が入ることになった。私が住んでいた家も母名義だったため、そこから退去を求められた。
もう、昔のように「家族だから何とかなる」で済む段階ではなかった。
こちらも専門家を入れ、財産と借金を一つずつ整理した。時間は1年以上かかった。最終的には、不動産だけでなく預金もほとんど吐き出し、すべてが終わったとき、私はほぼ無一文になっていた。
自由になるために財産を増やしたのではない。自由になるために、持っていたものを失った。ずいぶん皮肉な話である。
だが、このとき初めてはっきり分かった。仕事も財産も、人を支えるためのものである。人がそれを守るためだけに生き始めたら、主従が逆転している
そして、形として持っていたものをほとんど失ったあとにも、消えなかったものがあった。
【卦象ミニコラム】
形を変える強さ
卦象:巽為風|逆らわず入り込む
変化|固定した形から条件に応じる側へ
巽為風は、風が隙間へ入り込むように、硬く押し返すより、相手や状況に応じて形を変える局面を示す。店、仕事、財産、役割を同じ形で守り続ければ、変わった条件との摩擦だけが増えていく。譲ることは判断を捨てることではない。動かせない条件を見極め、自分が動ける場所へ力を移す。その柔らかさが、流されることとの境目になる。

形を失っても自分までは消えない

仕事も財産も肩書きも失えば、自分まで消えるように思える。だが実際に残ったのは、経験、判断力、知識、そしてもう一度仕事をつくる力だった。

長く続けた仕事、会社、財産、肩書きは、失えば自分まで消えるように見える。だが、守るために休日も金も気力も差し出し続けるなら、その形はもう本人を支えていない。残っているものより、それを維持するために払い続けている代価のほうが重くなる。その逆転は静かに進む。

形として持っていたものをほとんど失ったあとにも、消えなかったものがあった。経験である。知識である。判断する力である。そして、何もないところから仕事をつくる力だった。
こう書くと、「すべてを失ったおかげで、本当に大事なものに気づいた」という美しい話に聞こえるが、そんな話にするつもりはない。財産を失えば普通に痛い。長い時間をかけて築いたものがなくなれば、悔しいし、腹も立つ。預金通帳の残高が減っていくのを眺めながら、「これも人生の学びだ」などと達観できるほど、私は出来た人間ではない。
損失は、きれいな言葉で飾ったところで損失のままである
ただ、実際に失ってみると、失ったものと失わなかったものが嫌でも分かる。
私の仕事は、ずいぶん形を変えてきた。飲食店をやり、不動産業へ移り、開発事業にも関わり、その後はコンサルティングを仕事にした。14歳頃から続けてきた占術の研究も、長い時間を経て、仕事や経営を見る考え方の中へ入ってきた。
履歴書だけ見れば、節操がない。一つの仕事を何十年も続けることが立派だという物差しで見れば、私はかなり出来の悪い職業人生を送っている。
しかし、仕事を変えるたびに、それまでの経験を会社のロッカーへ置いてきたわけではない。
飲食店では、客が金を払うとはどういうことかを身体で覚えた。味が良ければ客が来るほど商売は単純ではない。店の雰囲気、価格、立地、接客、時代の好みまで絡んで売上になる。
不動産では、金額が大きくなれば人の判断がどう変わるかを見た。情報の差が商売になることも、銀行が晴れた日に傘を貸し、雨が降り始めると急に顔つきを変えることも経験した。
会社を経営すれば、売上が大きいことと、自分の手元に金が残ることは別だと嫌でも分かる。億単位の金を動かしていても、給料を払い、借入を返し、経費を払えば、「いったい誰のためにこれだけ働いているんだ」と思う日が来る。
そしてコンサルティングでは、それまで自分が痛い目を見ながら覚えたことが、そのまま他人の判断材料になった。
職業は変わっても、そこで身につけたものまで失業するわけではない
ここは、人生後半になるほど効いてくる。長く仕事をしていると、自分の価値を職業名で説明する癖がつく。「私は不動産屋だ」「私は飲食店経営者だ」「私はコンサルタントだ」。名刺にはそれでいい。だが、その肩書きがなくなった瞬間に、自分まで空っぽになると思い始めると厄介である。
仕事の形は外側にある。経験は自分の内側に残る。
私は財産整理を終えたとき、ほぼ無一文になった。以前のような不動産もなければ、まとまった預金もない。立派な資産表を作れば、ずいぶん寂しいものだったと思う。
それでも、商売の仕組みを見る目まで差し押さえられたわけではない。客が何に困っているかを考える力も、売れないときに別の方法を探す癖も、数字を見て危ない場所を察する感覚も残っていた。
パソコン一台あれば、もう一度仕事を始めることはできた。これは精神論ではない。
金を失っても、金を生み出すために身につけた力までは銀行口座から引き落とされない
若い頃の私は、資産といえば土地や建物や預金だと思っていた。もちろん、それらは大事である。金がない苦しさを知っているから、そこを軽く扱う気はない。
しかし、人生が一度ひっくり返ると、別の資産が見えてくる。何を経験したか。何を判断できるか。誰に何を提供できるか。何もないところから、もう一度商売を組み立てられるか。
外側の形が崩れたとき、最後に自分を支えるのは、こうして身体の内側へ残ったものだった
形を失うことと、自分まで失うことは同じではない

守ってきた形と自分の人生を切り分ける

外側の形が崩れたとき、最後に残ったのは、自分の中へ入った経験や判断力だった。
ところが、人は形があるうちは、そのことになかなか気づかない。会社がある。店がある。肩書きがある。昔からの顧客がいる。家族の中で任されてきた役目がある。長い時間と金を使って築いたものほど、「これを失ったら自分には何も残らない」と思いやすくなる。
だから、もう採算が悪くても仕事を続ける。身体がきつくても役割を降りない。関係が苦しくても「家族だから」と距離を変えない。会社の規模を小さくすると、自分まで小さくなったように感じてしまう。
こうして、本来は自分を支えるために作ったものを、自分のほうが必死で支えるようになる。形を守ることが目的になった瞬間、人と仕事の主従は簡単に逆転する
長く続けた仕事には、もちろん価値がある。積み重ねた信用もあるし、慣れたやり方もある。昔から付き合ってきた顧客を簡単に切ればいいとも思わない。
ただ、過去に価値があったことと、今も同じ形で持ち続ける価値があることは別である。
利益の薄い仕事を「昔からのお客だから」と断れない。休日まで電話に出る。自分がやらなければ回らない仕事を何年も抱える。もう必要のない物件や設備でも、「ここまで金をかけたから」と維持費を払い続ける。
一つひとつは責任感に見える。だが、それが何年も積み上がれば、人生のほうが削られていく。
市場は、その人が何十年頑張ったかを考慮して価格を決めてくれない。顧客も、こちらが疲れているからと自動的に仕事量を減らしてはくれない。銀行口座も、長年の苦労に敬意を表して残高を増やしてくれるわけではない。
社会は「責任感のある人」を褒めるが、その責任感で消耗した時間までは返してくれない
このあたりは、ずいぶん都合よくできている。
長く続けることは立派だと言う。家族を支える人は偉いと言う。会社を守り抜く経営者を称える。弱音を吐かず頑張る人を評価する。
そして、その人の身体が壊れ、金が残らず、人生の大半を仕事へ渡したところで、最後は「本人が選んだ人生」と片づけられる。
冗談ではない。
誰かをその役割へ押し込み続ける常識がありながら、最後だけ自己責任にするのは、あまりに虫がいい。
私自身、「しっかりした子」「姉を守る弟」「会社を背負う人」「家族を何とかする人」と、その時々で役を引き受けてきた。子どもの頃は、それで生き延びるしかなかった。経営者になってからは、それで会社を回した時期もある。
役割には役割の効用がある。ただし、過去に自分を守った役割が、今の自分まで守ってくれるとは限らない
ここを混同すると、役割を降りることが自分を裏切る行為に見えてくる。会社を縮小すれば「負けた」と感じる。仕事を変えれば「逃げた」と感じる。親との距離を取れば「薄情だ」と感じる。肩書きを外せば「何者でもなくなった」と感じる。
しかし、その感覚の中には、自分自身と役割を重ねすぎた部分がある。
経営者であることは、自分の全部ではない。親を支える立場も、自分の全部ではない。何十年続けた仕事も、自分の全部ではない。
肩書きは名刺に印刷できる。役割は周囲から説明できる。だが、人間そのものは、それよりずっと大きい。
私は、仕事も財産も何度か形を失った。だから、これはかなり身に染みている。形がなくなれば不安になる。それまでの自分を否定されたようにも感じる。だが、実際には、その形の中で身につけたものまで消えてはいなかった。
むしろ怖いのは、形を失うことではない。形を失わないために、自分の時間と気力を最後まで差し出し続けることである。
人生後半になれば、この代価は若い頃より重い。30代の1年と、60代の1年は、同じ365日でも意味が違う。これから使える時間には限りがある。身体も、気力も、無限ではない。
それでも「ここまで続けたから」という理由だけで守り続けるなら、過去へ払った代価を惜しむために、未来の時間まで追加で払うことになる。
それは、ずいぶん高い買い物である。
何を残すかは、その人が決めることだ。仕事を続けるのもいい。会社を残すのもいい。関係を守るのもいい。
ただ、その形が今も自分を支えているのか。それとも、その形を守るために自分のほうが使われているのか。ここを取り違えると、人生は簡単に他人の役割へ戻っていく。

過去の正解に未来まで縛られない

長く続けたから守る、失うのが怖いから残る。その物差しでは、残りの時間まで過去に渡してしまう。形を変えても、自分まで失うわけではない。

続けている間は責任感と褒められ、壊れたあとには判断が遅いと責められる。そんな都合のいい物差しに、残りの人生まで預ける理由はない。過去に正しかった選択と、これからの時間や身体を使ってまで続けたい選択は、同じとは限らない。判断の基準は過去より先に置く。

人生は簡単に他人の役割へ戻っていく。だから私は、「流れに乗る」という言葉を、かなり慎重に使っている。
何もしないで成り行きに任せることを、私しは流れに乗るとは思っていない。周囲が決めた方向へ押され、嫌だと思いながら従い、「これも運命だから」と自分を納得させる。それでは、子どもの頃に与えられた役割を黙って引き受けていた自分と大して変わらない。
流されるのは楽である。判断しなくていい。うまくいかなければ時代や運や他人のせいにもできる。
反対に、現実を見るのは痛い。
店に客が来ていても土地を明け渡さなければならない。自分ではうまくやっていても市場が縮む。計画に問題がなくても、近隣の環境が変わる。取引先が突然倒れる。財産を持っていても、それが人間関係や契約と結びついて自由を奪う。
こうした現実を前にして、「気合で何とかする」と言い続けるのは勇敢なのだろうか。私はそうは思わなくなった。
変えられない条件へ根性を投入し続けることは、勇気ではなく浪費である
流れに乗るとは、まず現実を現実として認めることだ。市場が変わったなら、市場が変わったと認める。身体が以前のように動かないなら、その身体で今後を考える。昔の顧客が減ったなら、「また昔のようになるはずだ」と願うだけで数字をごまかさない。
そのうえで、自分の側で変えられるものを選ぶ。仕事の形を変える。規模を変える。付き合う相手を変える。続けるものとやめるものを分ける。
私は何度も、この順番を間違えた。変えられないものを何とか変えようとして、ずいぶん時間も金も使った。意地も張った。執着もした。「ここまでやったのだから」と踏ん張った。
人は、前へ進んだ距離より、すでに払った代価に引っ張られる。
10年続けた。何千万円も使った。顧客もいる。周囲にも知られている。そんなものが積み上がるほど、やめる判断は難しくなる。
長く続けた仕事には、そこまで続けられた理由がある。過去の判断まで否定する必要はない。その時点では正しかった選択もある。だが、昨日まで正しかった選択が、今日も正しいとは限らない
ここを混同すると、過去を守るために現在を使い始める。
「20年やってきたのだから、今さらやめられない」
「ここまで金をかけたのだから、もう少し続ける」
「会社を小さくしたら格好がつかない」
「昔からの客だから断れない」
こうした言葉には、現在の採算や身体や時間より、過去に払ったもののほうが強く効いている。
商売の世界では、実に馬鹿馬鹿しいことが起きる。赤字の仕事でも「長年のお付き合いだから」と続ける。利益が出ない店でも「ここまで育てたから」と家賃を払い続ける。経営者本人が疲れ切っていても、「社長なんだから」と休日まで働く。
それを周囲は責任感と呼ぶ。そして会社が本当に行き詰まったときには、「もっと早く決断すればよかった」と言う。
続けている間は美徳と呼び、壊れたあとには判断が遅いと責める。ずいぶん勝手な物差しだ。
だから、自分の人生の判断まで世間の物差しへ預けないほうがいい。
何年続けたかは事実である。どれだけ金を使ったかも事実である。そこから何を学び、どんな信用や経験が残ったかも無視できない。しかし、それらは過去についての数字だ。
これから先も続ける理由は、これから先にある。今の市場で成り立つのか。身体は持つのか。利益は残るのか。そして、自分は残された時間を本当にそこへ使いたいのか。
長く続けたという事実だけでは、未来の時間を差し出す契約にはならない
「游雲」という名前に込めたものも、結局ここへつながっている。
私は、最初に決めた岸へ何が何でも泳ぎ続けることを、強さだと思わなくなった。潮が変わり、天候が変わり、こちらの身体まで変わっているのに、昔決めた岸だけを見て泳ぎ続ければ、最後に力尽きる。
それよりも、流れを見て、その流れに乗る。流れに乗れば、最初に目指した場所とは違っても、どこかの岸にはたどり着ける
どの岸へ着くかまで、人生は約束してくれない。思い描いていた場所より遠いこともあるだろう。望んだ景色ではないこともある。
それでも、流れに逆らって同じ場所で力を使い果たすより、たどり着いた岸で、そこからまた考えればいい。
岸を変えることもできる。進む方向を変えることもできる。そこで新しい仕事を始めることもできる。
人生を一度決めた航路から外さないことより、着いた場所からもう一度自分で選べることのほうが、私にはずっと重要になった。
自分では動かせないものへ人生を吸い取られず、まだ選べるものへ力を残す。私にとって「游雲」は、そのための名前になっていった。

変化する流れを受け入れて新しい岸へ進む

どこかの岸へたどり着いたら、そこからまた考えればいい。
若い頃の私は、人生というものを、もっと一本の線のように考えていた。仕事を決めたら続ける。会社をつくったら大きくする。財産をつくったら守る。一度決めた方向から外れず、最後までやり抜く人間が強い。
世の中も、そういう人生を好んで褒める。創業何十年。勤続何十年。一筋何十年。規模を拡大し、資産を増やし、最後まで現役を貫く。確かに、それで人生がうまく回っているなら立派なことだ。
だが、人生後半まで同じ物差しを持ち込むと、おかしなことが起きる。身体は若い頃と同じではない。親も年を取る。家族との関係も変わる。市場も客も技術も変わる。自分自身が欲しいものだって変わる。
それでも昔立てた目標だけは神棚に上げ、「一度決めたのだから」と守り続ける。
昔の自分が決めたことに、今の自分が一生服従する理由はない
私は長い間、「失わないこと」をかなり重要だと思って生きてきた。家族を失わない。仕事を失わない。会社を失わない。財産を失わない。築いたものをできるだけ減らさない。
ところが実際には、ずいぶん失った。父を失った。仕事の形も何度も失った。会社も変わった。財産もほとんどなくなった。家族との関係も切れた。
それを一つずつ並べれば、失敗だらけの人生にも見える。
だが、失うたびに人生そのものが終わったわけではなかった。焼肉店をやめたあとには不動産業があった。不動産から離れたあとには別の仕事があった。財産がなくなったあとにも、仕事をつくる力は残った。
最初に思い描いた岸へ着けなかったからといって、海の上で人生が終わるわけではない。着いた岸が違えば、そこで生き方を組み直せばいい
この感覚を持てるようになってから、守るものの見え方も変わった。何でも捨てれば自由になるなどとは思わない。金はあったほうがいい。信用も顧客も仕事も、残せるものは残したほうがいい。身体も大事にしたい。人との関係も、価値のあるものまで壊す理由はない。
ただ、残すこと自体を目的にはしたくない。
会社を残すために自分の身体を潰す。財産を残すために嫌な関係へ何年も縛られる。肩書きを守るために利益の出ない仕事を続ける。世間体を守るために、自分の残り時間を差し出す。
そんなものは、守っているようで、人生から奪っている。
何を持っているかより、それを持つために何を払い続けているかのほうが重要になる。
50代、60代になれば、この勘定はますます重くなる。金ならまた稼げることもある。仕事も形を変えてつくり直せる。だが、使った時間は戻ってこない。無理を重ねた身体も、若い頃のようには戻らない。気力にも限りがある。
だから人生後半では、「まだ続けられるか」だけで判断すると足りない。続けられる仕事でも、これから10年をそこへ使いたいとは限らない。維持できる会社でも、それを維持するために毎日を使いたいとは限らない。切らずに済む関係でも、残りの人生までそこへ縛られる理由にはならない。
社会は人に役割を与えるのが好きである。社長なら会社を守れ。親なら子どものために。子なら親を最後まで。長く続けたなら最後まで。始めたなら途中で投げるな。
こういう言葉は、言う側にはほとんど費用がかからない。代わりに払うのは、その役割を引き受けた本人である。時間を払い、金を払い、身体を払い、ときには残りの人生まで払う。
それでも最後に壊れれば、「本人の選択だった」と処理される。
私はもう、この馬鹿馬鹿しい会計に自分の人生を預けたくない。
人生の残り時間は、過去への未払金ではない
私が、「游雲」と名乗るのは、そのことを忘れないためでもある。
游雲は、何も決めない人間の名前ではない。どんな未来になるか分からないから判断を放棄する、という名前でもない。
自分では動かせないものがある。思いどおりにならない時代がある。どれだけ努力しても消えない条件がある。そこへ意地を張り続けて、自分まで使い果たさない。
流れが変われば形を変える。着いた岸が予定と違えば、そこからまた選ぶ。仕事も、役割も、持つものも、その時の自分に合わせて考え直す。
私がこの名前に託したのは、そんな生き方である。
人生を思いどおりに支配できないことは、もう十分に知った。それでも、人生を他人へ明け渡すつもりはない。
「游雲」は、形を変えても自分の人生を生き続けるという、自分自身への約束である
【その形は今も自分を支えているか】
長く守ってきた事実より、その形を維持するために今何を払い続けているかを見る。
仕事、会社、財産、肩書き、家族の役割には、積み重ねた時間や信用がある。だから簡単には離れにくい。だが、利益の薄い仕事へ時間を渡し、関係を守るために気力を削り、所有を維持するために金を払い続けているなら、その形はすでに自分を支える側から、自分が支える側へ回っている。過去に価値があったかではなく、今も自分の人生を支えているかが判断の境目になる。

(内田 游雲)

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