自由競争は平等ではない|小さな会社が戦わず利益を残す経営戦略

基本編
売上を増やすために値下げし、広告を増やし、SNSを続け、仕事を詰め込む。それでも利益は思ったほど残らず、社長の時間ばかり消えていく。そこで「もっと競争力をつけろ」と言われ、さらに頑張る。ずいぶん都合のいい話である。努力が足りないのか。それとも、努力する場所を間違えているのか。ここを見誤ると、頑張るほど小さな会社は苦しくなる。
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小さな会社が大企業と同じ土俵で競えば、資本、人員、広告力の差がそのま勝敗につながる。売上を追うほど値下げや固定費、社長の労働時間まで増えるなら、見るべきは売上規模ではない。強者と戦わず、利益と時間が残る場所を選べるかが経営の分かれ目になる。

自由競争は最初から平等ではない

スポーツなら5人対20人の試合は成立しない。それでも商売では、資本も人員も広告力も違う相手と同じ土俵で競うことが当たり前になっている。

売上を伸ばせない、値下げ競争に勝てない。そんなとき、経営者は自分の営業力や努力を疑いがちだ。だが、同じ市場に立つ企業が、同じ条件で競争しているとは限らない。自由という言葉の陰に隠れた条件差を見落とすと、負ける理由まで自分の経営能力のせいにしてしまう。

サッカーで、一方が5人、もう一方が20人なら、誰もそれをまともな試合とは考えない。将棋で一方だけが飛車と角を何枚も持っていても同じだ。ゲームやスポーツでは、競争を成立させるために最初の条件を揃える。それをしなければ、勝負ではなくなるからだ。
ところが、ビジネスでは平然とそれが行われている。
1人で商売をしている事業者の隣に、何万人もの従業員を抱える巨大企業が立つ。片方は自分で商品をつくり、営業し、問い合わせへ返事をし、請求書まで出している。もう片方には広告部門も営業部門も法務もシステムもあり、巨額の資金を使って市場を取りにいける。
持っている武器がこれほど違うのに、同じ顧客を取り合えば「自由競争」というきれいな言葉で括られる。
日本では、中小企業が全企業の99.7%を占め、そのうち小規模事業者だけで84.5%になる。2021年の事業者数で見ると、大企業は約1万者、小規模事業者は約285万者である。中小企業基本法上の小規模企業者は、製造業などで従業員20人以下、商業・サービス業では5人以下だ。日本の商売を支えている圧倒的多数は、小さな会社である。
しかし、数が多いことと力が強いことはまったく違う。広告に1,000万円使える会社と10万円しか使えない会社では、最初から届く人数が違う。大量に仕入れられれば原価を下げやすい。長年知られたブランドなら、顧客は社名だけで安心して買う。販売網も、人材も、資金調達力も違う。
これを同じ条件の競争だと考えるほうがおかしい。
自由競争は、参加する自由を与える。しかし、勝つ条件まで平等に与える仕組みではない
自由という言葉の響きに騙されてはいけない」。自由に参加できるから公平なのではない。巨大資本も零細企業も同じ市場へ入れるというだけで、持っている金も人も信用もまるで違う。
それでも小さな会社は、「もっと売上を増やさなければ」「もっと多くの客を取らなければ」と考える。経営書を読めば市場を広げろと言われ、マーケティングを学べば顧客を増やせと言われる。売上規模が大きいほど成功しているようにも見える。
そこで市場を広げる。だが、市場が大きくなればなるほど、そこは大企業にとってもおいしい市場になる。
小さな会社だけが見つけて商売をしていたニッチも、十分な売上が見込めるようになれば資本が入ってくる。資本が入れば広告量が増え、価格競争が始まり、いつの間にか小さな会社が育てた場所で、小さな会社のほうが苦しくなる。
自由競争という名の収奪は、誰かが裏で悪事を企んでいるから起こるのではない。強者が自分の持つ資本を合理的に使い、弱者まで同じ競争へ参加することで起こる。
そして小さな会社は、その競争に勝とうとして広告を工夫する。SNSを増やす。営業を学ぶ。商品を増やす。営業時間まで増やす。それでも届かなければ、さらに努力する。
ここまで来ると、かなり滑稽な話になる。資本も人員も広告力も桁違いの相手を前にして、「自分の努力が足りない」と考えているのだから。
小さな会社が巨大資本と真正面から戦うのは、素手でゴジラに立ち向かうようなものだ。勇気があれば何とかなる話ではない。根性を出せば勝てる話でもない。
弱者は絶対に競争してはいけない
少なくとも、強者の武器が最もよく効く場所で、わざわざ正面から戦う必要はない。
負けているのではない。最初から不利な土俵へ上がり、そこで勝とうとしている。その競争を続ける限り、強者に勝つための努力は際限なく増えていく。

自由競争の条件差を知り戦う相手を見直す

自由競争が平等ではないと分かっても、小さな会社はなかなか競争から離れられない。経営では長いあいだ、「市場は大きいほうがいい」「顧客は多いほうがいい」「売上は伸ばしたほうがいい」と教えられてきたからだ。売上を増やすなら、需要の大きな市場へ出る。より多くの人へ広告を届ける。商品を広げる。それ自体は筋の通った話に見える。
だが、小さな会社にとっては、ここに罠がある
市場が大きいということは、自分にとって商機が大きいだけではない。資本を持つ企業にとっても、金を入れる価値が大きいということだ。100人しか買わない商品なら、大企業はわざわざ組織を動かさない。10万人、100万人が買う市場になれば話は変わる。広告費を投じ、人を配置し、大量に仕入れ、価格を下げても採算が合うようになる。
小さな会社が苦労して見つけたニッチでさえ、育てば安全ではない。市場が十分に大きくなった瞬間、それまで見向きもしなかった巨大資本が入ってくる。そして皮肉なことに、市場を育てた小さな会社のほうが、その市場で苦しくなる。
これが自由競争という名の市場である。
自由という言葉の響きに騙されると、「努力すれば誰にでも勝つ機会がある」と考えてしまいがちだ。たしかに参加することはできる。店を出すことも、商品を売ることも、広告を出すことも自由だ。しかし、参加できることと勝負になることは別である。
資本も人員も信用も販売網も違う。それでも同じ市場へ入った以上、「あとは競争してください」となる。
これを小さな会社の側から見れば、自由競争という名の収奪になる。誰かが裏で小さな会社から奪おうと企んでいるという話ではない。強者は、自分の持つ資本を使って合理的に動いているだけだ。広告を増やす。仕入れを有利にする。価格を下げる。便利にする。市場を取る。企業として当然の行動である。
問題は、弱者までそのゲームに付き合ってしまうことだ。
競合が広告を増やせば、自分も広告を増やす。値段を下げれば、自分も下げる。SNSで大量に発信していれば、自分も投稿回数を増やす。商品数を増やし、営業時間を延ばし、休日まで仕事をする。それでも差が埋まらなければ、「まだ努力が足りない」と考える。
かなり残酷な話である。
相手は資本で戦っているのに、こちらは自分の時間と身体で対抗している
それを経営努力と呼び続ければ、どこまでも頑張れてしまう。そして頑張った末に利益が残らなくても、「自分の経営能力が足りなかった」という結論にされる。
しかし、素手でゴジラに立ち向かって負けた人間に、パンチの打ち方を反省させても仕方がない。
マーケティングを勉強することが悪いのではない。営業力を磨くことも、商品を改善することも必要である。だが、それらは戦う場所を間違えていないことが前提になる。土俵そのものが圧倒的に不利なら、優れた戦術ほど経営者を長く戦わせるだけになる。
だから、小さな会社が最初に疑うべきなのは、「どうすればこの競争に勝てるか」ではない。
なぜ、自分はこの競争に参加しているのかだ。
大きな市場だから。みんなが狙っているから。売上を伸ばしたいから。成功した会社がそこで戦っているから。その理由だけで、強者の武器が最もよく効く場所へ自分から入っているなら、いくら頑張っても苦しいのは不思議ではない。
負けているのではない。
最初から不利で負ける確率が高い土俵で、律儀に勝とうとしているのである。
そして自由競争では、その律儀さに報いてはくれない。

強者が競争を好むのには理由がある

資本を持つ側は、広告、仕入れ、人材、設備で得た優位を次の利益へ変え、その利益をさらに次の競争力へ変えていく。この差は競争を重ねるほど広がりやすい。

資本の差は、単なる財布の厚さでは終わらない。広告、人材、設備、仕入れ、信用へ姿を変え、そこで生まれた利益が次の競争力になる。強い会社ほど有利な条件を積み増せるなら、競争は実力を公平に測る場ではなく、持っている者がさらに持つための装置にもなる。

強者が競争を好むのには、きちんと理由がある。競争すればするほど、自分がすでに持っている資本を武器として使えるからだ。お金があれば広告を出せる。人を採れる。設備を入れられる。新しい商品を試せる。売れるまで赤字に耐えることもできる。失敗した商品を引っ込めて、別の商品を出す余裕もある。ひとつ外しても、会社そのものが倒れるとは限らない。
小さな会社では、そうはいかない。広告に使った100万円が外れれば、その100万円はそのまま痛い。人を一人雇えば、給料だけでなく社会保険や採用費、教育する時間まで必要になる。設備投資をすれば、そのお金を回収する仕事をつくらなければならない。一度の判断が、そのまま社長の生活や会社の資金繰りへ跳ね返ってくる。
同じ「競争」と呼んでも、負けたときの傷の深さまで違うのである。
大きな資本の怖さは、金額が大きいことだけではない。お金を使って、次の利益を買うことができることにある。広告費を使えば認知が増える。認知が増えれば売れやすくなる。大量に売れれば仕入条件や生産効率を改善しやすくなる。利益が残れば、また広告、人材、設備へ回せる。そこで得た顧客、ブランド、販売実績まで次の商売に使える。
お金がお金を呼び、勝った実績が次の勝ちやすさをつくる。これが資本の力である。
自由競争の建前だけを見ていると、企業は商品やサービスの良し悪しだけで競っているように見える。現実には、商品そのものの勝負になる前に、広告量、店舗数、物流、営業人数、仕入条件、資金余力といった物量戦が始まっている。
強者にとって競争は、自分の強さを使える場所である。だから、強者は競争を嫌う理由がない。
むしろ競争が激しくなれば、資本の小さな会社から先に苦しくなる。広告費の負担に耐えられない。値下げに耐えられない。人を増やせない。売れるまで待てない。そして、最後まで立っていられるだけのお金がない。
リングへ上がった時点では誰でも自由だが、殴り合いが長くなれば体重差がものをいう。
とくに残酷なのが価格競争である。商品やサービスの違いが見えにくくなると、顧客は分かりやすい数字で比較する。それが価格だ。
1万円の商品と8,000円の商品がほとんど同じに見えれば、8,000円へ人が動く。そこで小さな会社も8,000円に下げる。すると今までと同じ利益を残すためには、より多く売らなければならない。大量に売るために広告がいる。人がいる。在庫がいる。設備がいる。
結局、小さな会社は価格を下げた瞬間から、自分が最も不利な物量戦へ引きずり込まれる
大企業には、大量仕入れや大量生産によって1個あたりのコストを下げられる余地がある。資金に余裕があれば、利益を薄くして市場を取りにいく期間にも耐えられる。小さな会社が同じことをすれば、利益を削るだけでは済まない。社長の給料を削り、休日を削り、最後には借金をし、自分の人生に残すお金どころか負債を背うことになる。
安売り競争には、さらに嫌な性質がある。一番安い店には「一番安い」という分かりやすい理由がある。しかし、2番目に安い店には、それだけではほとんど意味がない。
最安値になれない小さな会社が、最安値を目指して利益だけを削る。これほど馬鹿馬鹿しい競争もない。
それでも市場では、「競争力をつけろ」と言われる。偉そうなコンサルタントがそう本に書き指導する。だが、資本力で負けている会社に価格競争をさせるのは、軽自動車にダンプカーとの正面衝突で勝てと言うようなものだ。
強者が競争を好むのであれば、弱者は絶対に競争してはいけない。これは精神論などではない。持っている資本と、競争した先に残るものを考えれば、ごく普通の経営判断である。

競争のいやらしさは、一度勝ったらそこで終わりではないことにある。勝った会社には利益が残る。だが、残るのはお金だけではない。名前が知られる。取引実績が増える。顧客が増える。仕入先との交渉力が強くなる。採用もしやすくなる。銀行からお金を借りるときの信用も増す。何が売れたか、誰が買ったか、どんな広告が効いたかという情報まで蓄積される。
そして、それら全部を次の競争に持ち込める。昨日勝った会社と、昨日負けた会社が、翌朝またゼロから同じ条件で競争を始めるわけではない。勝った会社は、昨日手に入れた利益、信用、顧客、情報を抱えたまま次の試合へ出てくる。負けた側は、減った利益と疲れた身体を抱えてまたリングに上がる。
これで差が縮まると考えるほうが無理がある。自由競争には、勝った側へさらに有利な条件が集まりやすい性質がある。売れたから広告を増やせる。広告を増やしたからさらに売れる。販売量が増えたから仕入条件がよくなる。利益が増えたから設備へ投資できる。知名度が上がったから、次の商品は最初から売りやすい。
勝者は、勝った結果そのものを次の武器に変えられる
小さな会社が一度負けたくらいで必ず潰れるわけではない。しかし、競争を続けるほど不利な側の体力が削られ、有利な側には次の競争に使えるものが積み上がる。この構造を無視して「自由なのだから努力次第」と言うのは、ずいぶん都合のいい話である。
競争は、参加者を平らにする装置ではない。むしろ条件によっては、競争するほど最初の差が次の差を生む
だから小さな会社が見つけたニッチ市場も、永遠の避難場所ではない。最初は市場が小さい。顧客も少ない。個別対応が多い。手間がかかる。大企業から見れば、わざわざ人とお金を投入するほどの旨味がない。だから小さな会社でも商売が成立する。
この段階では、小さいことが防波堤になる
ところが、その市場が育つと事情が変わる。顧客が増える。売上規模が大きくなる。テレビやネットで知られる。市場として将来性があると判断される。すると、それまで見向きもしなかった大きな会社が参入してくる。
別に卑怯ではない。儲かる市場へ企業が入るのは資本主義では当然である。しかし、小さな会社にとってはたまったものではない。
自分たちが長い時間をかけて顧客を見つけ、商品を磨き、市場を育ててきた。やっと商売になってきたと思ったところへ、広告費も人員も販売網も桁違いの会社が入ってくる。そこから「さあ自由に競争してください」と言われる。
ずいぶん美しい自由である。
市場が小さい間は相手にされず、大きく育てば強者が入ってくる。そこで真正面から迎え撃とうとすれば、また価格、広告、品揃え、便利さの競争へ引き戻される。
だから、ニッチを見つけることだけでは足りない。ひとつの市場を永久に守り抜くという発想にも無理がある。市場が変われば、競争条件も変わる。
以前は儲かった場所が、巨大資本の参入によって急に割に合わなくなることもある。そこで「ここまで育てたのだから」と意地を張れば、今度は過去に使った時間とお金が自分を縛る。
商売は縄張り争いではない。儲からないなら、儲かる場所へ移動すればいい
強者が入ってきた市場で最後まで戦い抜くことに勲章は出ない。市場を守り切った社長だけが立派だという決まりもない。利益を失い、お金を失い、時間を失ってまで「逃げなかった」と胸を張っても、会社と人生に残るものがなければ実利はない。
戦わずして勝つというのは、相手を打ち負かす妙技ではない。強者が本気を出せば勝てない場所なら、その強さが効かない場所へ行く。その市場が変わったなら、また動く。自分よりはるかに大きな相手に、正々堂々と負ける必要などどこにもない。
自由競争の世界では、誰も小さな会社を守ってくれない。だからこそ、小さな会社まで自由競争の美学に付き合う必要もないのである。
【卦象ミニコラム】
戦わないための退き方
卦象:天山遯|強者の土俵から距離を取る
変化|正面衝突から距離を取り直す局面
遯は、力の強い相手を正面から打ち負かす卦ではない。相手の勢いが強いとき、無理に競り合わず、自分の力を失わない位置まで退く局面を示す。退くことは敗北ではなく、どこで力を使うかを選び直すための判断でもある。市場が大きくなり、大資本の強さが効き始めたなら、同じ場所に居続けることだけが忠誠ではない。距離を取ることで、自分の強みが生きる場所が見えることもある。易が見るのは、勝敗よりも力を置く位置である。

売上を追うほど競争へ引き戻される

売上を増やそうと広告を増やし、人を増やし、固定費を抱えるほど、止まれなくなる。競争の代価は利益だけでなく、経営者の時間と気力からも支払われる。

売上が増えたのに、お金は残らない。仕事は増えたのに、休日は減る。会社は前へ進んでいるはずなのに、社長だけが身動きを取れなくなる。競争の負担は決算書の数字だけには出ない。広告費で払えない分を、小さな会社では社長の時間と身体が黙って肩代わりしている。

価格競争に入った小さな会社は、利益が減ると売上で取り返そうとする。1万円で売っていた商品を8,000円に下げれば、同じ数を売っても売上は2割減る。粗利はそれ以上に落ちる。だから販売数を増やす。新しいお客を探す。広告を出す。SNSを始める。投稿回数を増やす。商品を増やす。営業時間を延ばす。もっと売れば何とかなると考える。
ここから、小さな会社の地獄が始まる。売上を増やすために仕事を増やし、増えた仕事をこなすために、さらに自分の時間を差し出す。問い合わせが来れば夜でも返事をする。休日にもメールを見る。SNSには毎日何かを書かなければならない。店を開ける時間も伸びる。仕事が増えれば、請求、入金確認、顧客対応、クレーム処理まで増えていく。
大企業なら人を配置するところを、小さな会社や個人事業では社長が自分でやる。広告費が足りなければ、自分で発信する。営業担当がいなければ、自分で営業する。経理がいなければ、自分で請求する。人手が足りなければ、自分が残業する。資本の不足を、社長の時間と身体で埋めているのである。
しかも、それを「経営者なのだから当然」と思ってしまう。朝から晩まで働く。休日も仕事をする。家族と食事をしていてもスマートフォンを見る。それでも売上が伸びれば、「会社が成長している」と安心する。
しかし、その成長のために社長本人が毎日2時間、3時間と余計に働いているなら、その時間にも値段がある。会社員なら残業代という考え方がある。小さな会社の社長には、誰も残業代を払ってくれない。だから社長の労働時間は、会計上とても見えにくい
売上が100万円増えた。そのために広告費が20万円増え、外注費が20万円増え、社長の労働が月80時間増えた。それでも売上だけを見れば「100万円伸びた」と言える。ずいぶん便利な数字である。
社長が夜中まで働いた時間は、売上高には書かれない。休日を潰したことも、家族との時間を失ったことも、疲れて判断を間違えたことも、決算書の売上欄には出てこない。それでも世間は売上を聞きたがる。「年商はいくらですか」この質問ほど、小さな会社の実態を隠すものもない。
年商3億円でも、社長がほとんどお金を受け取れず、毎日仕事に追われている会社がある。反対に、売上規模は小さくても、十分な利益が残り、顧客を選べて、休日を取れる会社もある。それなのに売上が大きいほうが立派に見えるから、社長自身までその数字に酔う。
売上規模は社長のエゴには気持ちよく響くが、実利とは関係ない。実利は利益である
さらに小さな会社では、利益だけ見ても足りない。その利益をつくるために、社長が何時間働いたのか。何日休めたのか。どれだけ気力を使ったのか。それを何年続けられるのか。そこまで見なければ、本当に儲かっているのか分からない。
売上を増やすための努力が、いつの間にか会社を維持するための労働へ変わる。そして忙しくなった社長は、考える時間まで失う。競争から抜け出す方法を考える暇もなく、今日の売上をつくるために明日も働く。
競争に勝とうとして、競争から降りる自由まで失っていく。これが、小さな会社が競争へ深入りしたときに起きる、いちばん厄介なことなのである。

売上競争を見直し利益と時間の残り方を見る

売上を増やすために人を雇う。店舗を広げる。設備を入れる。倉庫を借りる。車を増やす。借入をする。会社が大きくなれば、毎月出ていくお金も大きくなる。家賃は売上が少ない月でも請求される。給料も払わなければならない。借入の返済も待ってはくれない。リース料もシステム利用料も、社長が「今月は少し休みたい」と思ったからといって止まらない。
ここで経営の景色が変わる。以前なら断れた仕事を断れなくなる。利益が薄くても受ける。相性の悪い顧客でも我慢する。値下げを要求されても、売上を失う怖さのほうが勝つ。広告の効果に疑問を感じても、止めて問い合わせが減るほうが怖い。
会社を大きくした結果、社長の自由が小さくなっていく。なんとも皮肉な話である。自由になりたくて会社を始めたはずなのに、家賃、人件費、借入返済、売上目標に追い立てられ、会社員だった頃より仕事を断れなくなる。
それでも数字の上では「成長企業」である。従業員が増えた。店舗が増えた。売上が増えた。取引先が増えた。外から見れば立派になった。社長だけが疲れ切っている。
この現実は、経営の成功物語ではほとんど語られない。会社を大きくした結果、毎月必要な売上まで大きくなる。必要な売上が大きくなれば、その売上をつくるために競争から降りられなくなる。競争から降りられないから、さらに広告し、営業し、人を使い、仕事を取る。
会社を維持するために売上をつくる。そして、売上をつくるために会社を維持する。何のために会社を大きくしたのか分からなくなる。
もっと悪いのは、この状態でも売上が伸びている限り、問題が見えにくいことだ。売上は元気よく増えている。銀行も取引先も「順調ですね」と言う。経営者仲間からも「大きくなりましたね」と言われる。
ところが通帳を見れば、それほどお金は残っていない。予定表を見れば空いている日はない。休日でも電話は鳴る。従業員の問題、顧客の問題、資金繰りの問題が次々に社長のところへ戻ってくる。売上という数字は、この惨状をきれいに隠してくれる。
売上は会社の大きさを示しても、売上は社長の豊かさまでは示さない。だから「年商何億円」という言葉に酔わないほうがいい。年商は勲章ではない。
大きな売上から大きな経費が出ていき、大きな責任を抱え、大量の時間を使い、最後に社長の手元へほとんど残らないなら、その大きな数字はいったい誰のためのものなのか。売上30億円で利益1億円の会社と、売上3億円で利益1億円の会社があったとする。実利として残る利益だけを見れば同じ1億円である。それでも世間は30億円の会社を大きな会社として見る。
社長のエゴには、30億円のほうが気持ちいい。しかし、銀行口座は社長の見栄に拍手してくれない
さらに人生後半の経営では、利益だけでも足りない。その利益を残すために、毎日何時間働いているのか。夜まで仕事をしているのか。休日を何日潰しているのか。気力をどれだけ消耗しているのか。その働き方をあと10年続けたいと思えるのか。
会社は黒字でも、社長の人生が赤字という経営は数多くある。お金は残ったが身体を壊した。顧客は増えたが家族との時間が消えた。会社は大きくなったが、嫌な仕事を断る自由がなくなった。それを成功と呼ぶかどうかは、売上高では決められない。
小さな会社では、社長の身体も時間も気力も会社と直結している。そこを無視して会社の数字だけを伸ばせば、最後には会社が社長の人生を食いつくす。経営者が会社を食わせるために生きるようになったら、主客転倒である
事業は、本来、経営者の生活と人生を支えるための器だったはずだ。競争に勝とうとして売上を増やし、売上を維持するために固定費を増やし、その固定費を払うために競争から降りられなくなる。
ここまで来れば、「もっと売る方法」を考えるだけでは足りない。どの競争なら、利益だけでなく、自分の時間まで残せるのか。その問いを持たない限り、売上が増えるほど自由を失うという馬鹿げた経営から抜けられないのだ。

勝つ場所より戦わない場所を選べ

強者の土俵で勝つことを目標にしなくていい。自分の強みが価値になり、価格で比べられず、利益と時間が残る場所を選ぶことが小さな会社の戦略になる。

商売を続けていると、撤退や縮小は負けに見えやすい。市場を広げ、売上を増やすほうが立派にも見える。だが、人生後半までその物差しに付き合う必要があるのか。利益も時間も残らない場所へ居座ることまで経営者の美学にしてしまえば、最後に残るのは意地だけになりかねない。

ここまで読めば、小さな会社が考えるべきことはかなりはっきりしてくる。勝てない場所で、勝つ方法ばかり考えないことだ。儲からない市場で広告を工夫し、営業を増やし、値下げし、休日まで潰して粘る。そうやって何年も頑張った末に、「もっと努力が必要だ」と言われる。
冗談ではない。経営は根性比べではない。まして、苦しい場所から逃げなかった人を表彰する競技でもない。儲からないなら、儲かる場所へ移動すればいい。これほど単純な話が、経営になると急に難しくなる。
店をつくったから。長く続けてきたから。この商品に思い入れがあるから。ここまでお金を使ったから。昔は売れたから。周囲から撤退したと思われたくないから。そんな理由が積み重なると、儲からない場所へ居続けることまで「経営者の責任」に見えてくる。
だが、市場は社長の思い入れに付き合ってはくれない。過去に1,000万円使ったからといって、明日から利益が出るわけではない。20年続けた商品だからといって、顧客が買い続ける義務もない。自分が育てた市場だからといって、大企業が入ってこない約束もない。市場には恩義も義理もない。儲からなくなった場所に残り続ければ、削られるのは自分のお金と時間である。
それでも「逃げるのは格好悪い」と考える経営者はいる。大きな会社と正面から競争し、最後まで戦うことに妙な美学を感じてしまう。しかし、そんな美学は捨てたほうがいい。会社が潰れたあとで「あの社長は立派に戦った」と褒められても、借金は減らない。失った時間も戻らない。家族の生活も守れない。
経営に必要なのは武士道ではなく実利である。戦って勝てるなら戦えばいい。しかし、こちらが竹槍で相手が戦車なら、竹槍の握り方を研究するより、逃げて場所を変えるほうが早い。戦わずして勝つとは、強者を倒す妙技ではない。強者と戦わなくても儲かる場所を選ぶことである。
その場所は、たいてい大企業が欲しがる場所とは少し違う。市場が小さい。顧客の数が少ない。個別対応が必要になる。手間がかかる。標準化しにくい。経営者本人の経験や人柄が価値になる。大量販売には向かない。
普通の経営論では、こうした市場は魅力が小さいと見られやすい。だから価値がある。大企業は、大きな組織を動かすだけの売上が必要になる。100人の顧客のために何百人、何千人という組織を動かすことは割に合わない。細かな要望へ一件ずつ付き合うより、商品を標準化して大量に売ったほうが効率がいい。
小さな会社には、その「割に合わない場所」が商売になる。年間100人しか来ない顧客でも、1人あたり十分な利益が残り、その顧客が何年も付き合ってくれるなら成立する。全国に売れなくても、自分のことをよく知る顧客が継続して買ってくれればいい。
市場が小さいことは、弱点だけではない。大企業には小さすぎる市場が、小さな会社には十分な市場になる。ここを間違えると、「もっと市場を大きくしなければ」と自分から安全地帯を壊してしまう。
せっかく価格競争が起きにくく、自分の専門性が評価され、固定客がついているのに、「もっと売上を」と対象を広げる。商品を平均化する。誰にでも売れるようにする。広告を増やす。すると、それまで「あなたから買いたい」で成立していた商売が、「どこで買っても同じ」に近づいていく。そして再び価格で比較される。
自分で自分をコモディティにして、大企業が得意な競争へ戻っていくのである。なんとも律儀な自殺行為だ。
小さな会社に必要なのは、巨大市場の端でこぼれた客を拾うことではない。大企業の物差しでは面倒で、小さすぎて、効率が悪く見える場所に、自分なら利益を残せる商売をつくることである。
狭くてもいい。小さくてもいい。世間から「そんな市場で大丈夫か」と言われるくらいで、ちょうどいいこともある。市場の大きさを自慢しても、利益が残らなければ何の意味もない。売上の天井が低くても、利益と時間が残る場所のほうが、小さな会社には豊かな市場である
大きな市場へ出れば成功という思い込みを捨てると、競争相手の顔ぶれまで変わる。そこで初めて、小さいことが弱さではなく武器になってくる。

競争する市場を選び利益が残る場所へ移る

小さな市場を選んだだけでは、まだ足りない。そこで大企業の真似を始めれば、結局また同じ競争へ戻るからだ。商品を増やす。顧客層を広げる。誰にでも分かるものへ平均化する。売上を伸ばすために人を増やし、広告を増やし、組織を大きくする。そうやって「普通の立派な会社」へ近づこうとすると、小さな会社が持っていた強さを自分で捨てることになる。
小さな会社には、小さいからできる商売がある。社長本人が顧客を知っている。名前だけでなく、何を買い、何に困り、どんな仕事をしているかまで知っている。商品について聞かれれば、その場で答えられる。少し変わった要望にも対応できる。昨日決めたことを今日変えることもできる。
大企業から見れば非効率である。だからこそ、そこに居場所がある。大量に売らなければ成立しない会社は、一人の顧客へそこまで手間をかけられない。全国共通の商品を売る会社は、一人ひとりに合わせて商品を変えにくい。組織が大きければ、社長の判断だけで明日から方針を変えるわけにもいかない。
大企業の弱点は、小さな会社になれないことである。
小さな会社が目指すなら「弱小企業」ではなく「強小企業」である。売上規模では大企業にかなわない。従業員数でも広告費でも負ける。それでいい。狭い領域だけなら、この会社のほうが詳しい。この仕事だけなら、この人へ頼みたい。価格が少し高くても、ここから買いたい。
そんな場所を持てれば、全国で有名になる必要はない。100万人から知られるより、100人から強く必要とされるほうが商売になることもある。
顧客との関係も同じだ。毎年新しい顧客を大量に集めて、翌年またゼロから集客を始める。それを何十年も続けるのは、ずいぶん疲れる商売である。一度買ってくれた人がまた来る。家族が来る。紹介で知人が来る。何年も付き合いが続く。その関係そのものが信用になり、次の売上をつくる。
お金を使って広告を買い続けなくても、過去の仕事が次の仕事を連れてくる。これは大企業には真似できないという話ではない。小さな会社のほうが、この関係を商売の中心へ置きやすいということだ。顧客を増やし続けなくても、顧客との時間を長くすることはできる
ここまで来ると、会社を大きくすることが経営の最終目的ではなくなる。私自身、若い頃は大きく稼ぐ経営者のほうが優秀だと思っていた。会社を大きくし、売上を伸ばし、世間から成功者と呼ばれる。自分もそこへ行かなければならないと思っていた時期がある。
しかし、あるところで認めるしかなくなった。私は天才経営者ではない。世の中を変える巨大企業をつくる才能もなければ、何万人もの組織を率いる器もない。そこで無理に天才の真似をするより、自分にできる商売で「ほどほど」に稼ぎ、ちゃんと利益を残し、好きな仕事を長く続けるほうがいいと考えるようになった。
「ほどほど」は負け惜しみではない。いや、負け惜しみかもしれない。しかし、欲しいものが十分に残るなら、それ以上の売上を追わないという選択でいいではないか。
凡人は、そこそこを目指せばいい
この言葉は、成功を諦めろという意味ではない。世間が決めた成功の大きさに、自分の人生まで合わせる必要がないという話だ。とくに人生後半になれば、競争へ投入しているものの重さが変わる。
20代、30代なら失敗してもやり直す時間がある。50代、60代になれば、お金だけでなく、身体も気力も働ける年数も有限なことに気付く。そこでまた会社を大きくするために借入を増やし、人を増やし、固定費を増やし、売上競争へ飛び込むのか。
それとも、これまで積み上げた経験、信用、顧客との関係を使い、少ない仕事でも利益が残る形へ変えていくのか。もちろん、どちらが正しいと決まっているわけではない。しかし、売上だけを見ていたら、この違いは見えない。
会社が終わったとき、何が残るのか。預金や金融資産だけではない。顧客からの信用、長年積み上げた知識、商品、文章、仕組み、仕事を選べる自由、自分の時間も残る。反対に、年商だけ大きくなって、会社を畳んだ瞬間に何も残らないなら、何十年も何のために競争してきたのかという話になる。
会社の売上を残すのではない。経営した結果を、自分の人生へ残すのである。
自由競争の世界では、強い者が強い武器を使う。それを止めることはできない。ならば、小さな会社までその土俵へ上がり、正々堂々と殴られ続ける必要もない。
大企業には小さすぎる場所を選ぶ。自分の得意が価値になる仕事を残す。顧客と長く付き合う。利益を残す。時間を残す。そして、競争条件が変わったら、また場所を変える。
逃げることまで自由なのが、自由競争である。勝つことだけを自由だと思わないほうがいい。
いま必死になって勝とうとしているその競争に、これからの10年まで差し出す必要があるのか。小さな会社の経営は、そこから考えても遅くない。
【その競争に払う代価を見る】
勝てるかどうかより、その勝負に何を差し出しているか。
広告費や値下げだけが競争の費用ではない。売上を守るために休日を削り、社長の労働時間を増やし、利益の薄い仕事まで抱えているなら、その競争で得るものと失うものは分けて考えたい。売上が増えていても、利益、時間、気力、仕事を断る自由まで減っているなら、その数字だけで「うまくいっている」とは判断できない。自分の人生から何を差し出しているかも、経営の勘定に入る。

(内田 游雲)

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