自我が傷つくことを恐れない人が運と可能性を引き寄せる

恐怖を感じながらも前に進むことが可能性を開く

恐怖心や羞恥心は、自我が自分を守ろうとする自然な働きだが、それに従ってばかりいると、行動できずに運も遠ざかる。恐怖の正体は多くが曖昧な想像であり、向き合えば大抵は乗り越えられる。何かを伝える勇気を持てば、自我は少しずつ強くなり、行動が運を引き寄せる。たとえ傷ついても、それは人生にとって“かすり傷”。恐怖を感じながらも前に進むことが、自分の可能性と幸運を開く鍵になる。(内田游雲)

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内田游雲(うちだ ゆううん)

ビジネスコンサルタント、経営思想家、占術家。静岡県静岡市に生まれる。中小企業経営者に向けてのコンサルティングやコーチングを専門に行っている。30年以上の会社経営と占術研究による経験に裏打ちされた実践的指導には定評がある。本サイトの「運の研究-洩天機-」は、運をテーマにしている。他にも、この世界の法則や社会の仕組みを理解しスモールビジネスの経営を考える「気の経営」を運営している。座右の銘は 、「木鶏」「千思万考」。

「恥ずかしい思いをしたらどうしよう」「失敗して笑われたら立ち直れないかも」。そんなふうに思ったこと、一度や二度じゃないはずだ。誰かの視線が気になって、ほんの一歩が踏み出せなくなる。これ、実はごく自然な感情で、人間の“ある機能”が関係している。そう、自我だ。自我は、自分という存在を守ろうとしてくれる。けれど、その防衛本能がちょっと過剰に働くと、挑戦やチャンスから私たちを引き離してしまう。

傷つくことの恐怖が運を遠ざける

心が傷つくことに過敏すぎると、「やってみたい」と思った瞬間に、脳内では警報が鳴り響く。何かを伝える前に「変に思われるかも」と考え、「恥ずかしいからやめとこう」となる。たしかに、それで恥はかかずに済むかもしれない。でも代わりに、自分の未来から面白い可能性まで削ぎ落としてしまってはいないだろうか。気がつけば、何もしていないのにどこか満たされず、「私ってこのままでいいのかな」とぼんやり不安だけが残る。

おまけに、運というのは行動とセットでやってくる。黙って部屋の隅に座っている人に「お待たせしました〜!」と駆け寄ってくるような優しい性格はしていない。多少強引でも「いらっしゃい!」と自分から動いた人のところへ、するっと入り込むようにやってくる。つまり、心の中のブレーキを少し緩めて、恥や失敗に耐える覚悟を持った人にだけ、運はにっこり微笑むのだ。

とはいえ、自我が傷つくのってやっぱり怖い。けれど、それは誰にとっても同じだ。みんな本音では怖いし、恥をかきたくないし、無視されるのは嫌だ。でも、それでもやってみる人が、ちょっとずつ変わっていく。少しの勇気が、予想外のチャンスを連れてくる。そう考えたら、恐怖の向こう側には、案外ステキな展開が待っているかもしれない。ね、人生って、死ぬこと以外はだいたいかすり傷。ちょっとくらい傷ついても、きっと大丈夫。

自我が傷つくことを恐れない

運がいい人って、何か特別な才能を持っているように見えるかもしれない。でも実際はちょっと違う。共通しているのは、あまり「怖がらない」こと。もっと正確に言えば、「怖がってもやる」こと。つまり、恥をかくのも、失敗するのも、間違うのも全部「たいしたことない」と思えるメンタルの持ち主である。自我が多少傷ついても気にせず進む。そんな人のところに、運はごく自然にやってくる。

なぜなら運は、流れの中にいる人を見つけやすいから。動いていないと、運からも見つけてもらえない。黙って何もせず、完璧に準備が整うまで待とうとする人のところには、残念ながら順番がまわってこない。「えいやっ」と飛び込んだ人にだけ、運は「よし、そこに行こう」と決めるのだ。少しくらい傷がついても平気な人が、運に選ばれる。

静かになった心にチャンスや運が入り込む

もちろん、自我は放っておくとすぐに「それ、恥ずかしくない?」「周りにどう思われる?」と不安を煽ってくる。でも、そこに慣れてしまえば、案外それは“ただの声”だとわかる。ちょうど、空腹のときに「お腹空いた〜」と鳴る胃袋のようなもの。自我の警告は、本当の危機ではない。声が聞こえたからといって、ご飯を食べるのをやめる人はいない。それと同じで、少し傷つくくらいなら、むしろやってしまったほうがスッキリする。

それに、行動した後の“どうでもよさ”は、一度経験するとクセになる。あれだけドキドキしていたのに、終わってみれば「なーんだ、そんなことか」と思える。この経験が増えていくと、自我の声はどんどん小さくなっていく。そして、静かになった心には、チャンスや流れが入り込む余白ができる。そこに運がするっと入ってきて、まるで昔からの友達みたいな顔をして、「よくやったね」と言ってくれるのだ。

恐怖心の正体は曖昧な想像のこと

人はなぜ、そんなにも「怖い」と感じるのか。それは、多くの場合“よくわからないから”である。恐怖の多くは、実体がない。頭の中に浮かぶ「もしもこうなったらどうしよう…」という曖昧な未来の妄想が、じわじわと大きくふくらんでいく。正体のわからないものに対して、人間はものすごく敏感だ。実際には何も起きていないのに、心だけがフライングでビビり始める。これが恐怖心の正体である。

たとえば「何かを伝えよう」と思ったとき、「変に思われるかもしれない」と心がざわつく。でも実際、その“変”ってなんだろう? 誰が、どう思うのか? どんなふうに言われるのか? よくよく考えても、その“誰か”の顔がぼやけたまま、何もはっきりしない。そう、恐怖心というのは、実はぼんやりした想像の集合体にすぎないのだ。現実を正確に見ているわけではない。

だからこそ、いったん立ち止まって「一番最悪の結果って、具体的にどうなるの?」と自分に問いかけてみるのが有効だ。たいていの場合、「ちょっと気まずい」とか「数日落ち込むかも」くらいが関の山。それで人生が破滅するなんてことは、まずない。それどころか、何かを伝えたあとに、「言ってよかった」「思ったよりちゃんと伝わった」なんて、思いがけずプラスの結果になることも多い。

そしてもうひとつ。最悪のケースを想像するだけでなく、うまくいったパターンも想像してみるのだ。「もし、伝えたことでいい流れが生まれたら?」「相手が共感してくれたら?」。そう考えると、少しずつ“やってみてもいいかも”という気持ちが湧いてくる。恐怖のモヤモヤに、光が差し込む瞬間だ。つまり、恐怖というのは、向き合ってみれば案外やわらかい。ちゃんと顔を見れば、ただの影絵みたいなものだったりする。

羞恥心を越えると可能性が開く

何かを始めるとき、多くの人がまず感じるのが「恥ずかしい」という気持ちだ。特に、今までやったことのないことや、少しでも人目につくようなことになると、羞恥心が全力で立ちはだかってくる。「何あの人、って思われたらどうしよう」「自分だけ浮いてたらイヤだな」と、心の中で勝手にシミュレーションが始まる。でも、実際にそんなふうに思われる確率って、どれくらいあるのだろう?

仮に誰かがちょっと見ていたとしても、それをずっと覚えている人なんて、ほとんどいない。みんなそれどころじゃないし、自分のことに必死だ。他人の目を気にして行動をやめてしまうのは、言ってしまえば「見られてもいないステージで勝手に緊張しているようなもの」なのだ。もちろん羞恥心は誰にでもある。でも、それを超えた先にしか、自分の可能性は見えてこない。

たとえば誰かに何かを伝えたとき、たとえうまく伝わらなくても、それによって大きな損失があるわけではない。伝える前と何も変わらない。それどころか、ほんの少しでも“動いた”自分に対して、自信のかけらが芽生えることもある。そして、その一歩が積み重なると、自分の枠が広がっていく。羞恥心を乗り越えるたびに、心の筋肉がひとつ強くなる。

「何かを伝えることに失うものはない」。これは、実際にやってみた人だけがわかる感覚だ。思い切って行動したとき、その直後は多少ドキドキするかもしれない。でも時間が経てば、不思議と「あれ?なんであんなに怖かったんだろう」と笑えるようになる。そうして振り返るたびに、自分の中の“怖がり屋さん”が少しずつ静かになっていく。そしていつの間にか、かつての自分より自由に、のびのびと生きられるようになっている。

恐怖に向き合うことが開運の一歩

誰だって怖いものはある。恥ずかしさ、人からの視線、失敗、無視されること、うまくいかない可能性——ぜんぶまとめて「できれば避けたいもの」リストに入れたくなる。でも、皮肉なことに、その“避けたいもの”のすぐ隣に、人生の転機やチャンスがそっと並んでいたりする。だからこそ、「怖いからやらない」をくり返していると、運も人生もちょっと味気なくなってくるのだ。

本当に必要なのは、「怖くないふり」でも「完璧な準備」でもない。むしろ、ちゃんと自分の恐怖を見つめること。どんなときに怖さが出るのか、なにがそのスイッチなのか。自分の中の反応を理解するだけで、その感情はずいぶん落ち着いてくれる。まるで、怖がって鳴いている子猫に「大丈夫だよ」と声をかけるようなもの。自分の中の恐怖心にも、同じように優しく向き合えばいい。

そして大事なのは、“少しだけ傷ついても大丈夫”と思える心のしなやかさだ。何かを伝えて恥ずかしかったとしても、それで命が取られるわけじゃない。誰かに否定されたとしても、あなたの価値が消えるわけでもない。むしろ、そんな小さな「かすり傷」こそが、自分の幅を広げてくれるのだ。恐怖に触れるたびに、心は少しずつタフになっていく。

運というのは、行動とセットでやってくる。しかも、行動するたびに「よしよし、よく頑張った」と背中を押すような存在ではなく、「来たね? じゃ、次の扉開けとくよ」みたいな、ちょっと不思議でクールな存在だ。だから、怖さを感じたら、それは「そろそろ次の運がくる合図」かもしれない。恐怖の向こうには、あなたのまだ見ぬ未来と、少し先で待っている運がそっと手を振っている。あとは、その一歩を出すだけだ。

怖さを抱えたままでもいいから、一歩だけ前へ踏み出せば、あなたの人生にそっと運の風が吹き始める。

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