
「習い」と「稽古」と「工夫」
「小才は、縁に出おうて縁にきづかず・・・
中才は、縁に気づいて縁を生かさず・・・
大才は、袖すり合う縁すら生かす・・・ 」柳生家家訓より
この言葉は、私の座右の銘でもあります。
私は、この人生において、一番大事にしているのが人との出会いでもあります。
茶道の世界に、『一期一会』という言葉もあります。
今生の別れの茶という真剣勝負の心で接することです。
心の修行をして世の中に平和を作る
柳生家の家訓といえば、剣の道の極意です。
それが、なぜ、「縁」なのでしょうか?
武士の世界では、一度刀を抜いたら、殺るか殺られるかのどちらかです。
まさに、命をかけた殺し合いです。
殺人剣と活人剣という話を聞いたことがありますか?
昔、柳生家の21世、柳生延春氏の文章を読む機会がありました。
ここで、その言葉をご紹介しておきます。
「最初は、身を守るために技術を高める殺人剣の修行から始まります。
修行のレベルが高まるにつれて、自分を磨き人を活かす活人剣の世界に入っていく。殺すのは人ではなく悪なのです。
悪を殺し、万人を生かすはかりごとが武士道です。柳生新陰流に無刀取りの技があります。
この技ができたのは、剣と剣を取り合って戦えば、一方が勝ち、一方が死ぬ。
もしくは双方が傷つき倒れる。それを、素手で白刃をとってやれば、取られたほうも取ったほうも無事で済みます。
双方無事です。これが、武道の目指す境地なのです。
兵と不祥の器であり、兵法とは平法です。
平法は自らの心を安らぎの世界に置き、心の修行をして世の中に平和を作る一助になることです。
武という字は、矛を止めると書きます。刀剣は身につけるが、刀剣は使わない。
これが、武道の奥義なのです。」
兵は不祥の器とは、老子が残した言葉です。
「兵は不祥の器、君子の器に非あらず」
(武器は不吉な道具であって、立派な人間が使うものではない)
初心忘るべからず
その柳生家の稽古における心得に『三摩の位』というものがあります。
これは、兵法の学習の三つを学ぶことです。
その三つとは「習い」「稽古」「工夫」です。
円を書いて。その円周上に三点を取り、くりかえすのです。
どこまでも限りなく繰り返すことにより、単なる円から螺旋になって登っていくのです。
どこまでも、限りなく繰り返すことが大事なのです。
柳生家の場合、上泉伊勢守以来の教えと技術が「習い」です。
私たちの人生においては、これは「ノウハウ」とか「知識」です。
それを身につけるのが「稽古」です。
どんな、習い事の「稽古」でも一回こっきりということはありませんよね。
何度も、何度も、繰り返すことを「稽古」といいます。

しかし、「習い」と「稽古」だけではダメで自分の工夫がそこにあらわせなかったら自分のものとして生かせないのです。
残念なことに、ほとんどの人がこの「工夫」をしようとしないのです。
それどころか、多くの人が「習い」で止まってしまっているのです。
これでは、正直結果が出るわけがないのです。
しかも、柳生家の極意は言います。
「繰り返す」と
「習い」→「稽古」→「工夫」ときたら、また、「習い」にもどることです。
そうして、また何度もやってみる(稽古)
さらに工夫する。
これで、結果が初めて出るのです。
大事なのは、「稽古」と「工夫」です。
あなたは、この二つをやる前にあきらめてしまってはいませんか?
世阿弥の言葉に次のものがあります
「是非、初心忘るべからず
時々、初心忘るべからず
老後、初心忘るべからず」
世阿弥は、およそ600年ほど前、「能」を大成した人物です。
何事であれ、最初の基本に戻ることが、重要な人生の極意でもあるのです。