言葉は伝わらないのがあたりまえである
私たちの人生にとって「言葉」のスキルはもっとも重要なものの一つだ。私たちが直面するほとんどの問題は、言葉から生まれている。それなのに、言葉を発するときには、あまり、考えずに自分の欲するままに発している。この認識の間違いが、大きな問題を引き起こしてしまうのだ。人は多弁になればなるほど、相手の理解度は低くなり、さらに記憶度が薄くなり、人間としての重みを軽くしていくことになる。(内田游雲)
profile:内田游雲(うちだ ゆううん)
ビジネスコンサルタント、経営思想家、占術家。中小企業や個人事業等の小さな会社のコンサルティングを中心に行う。30年以上の会社経営と占術研究による経験に裏打ちされた実践的コンサルティングには定評がある。本サイトの「運の研究-洩天機-」は運をテーマにしている。他にも、この世界の法則や社会の仕組みを理解し経営を考える「気の経営」を運営している。座右の銘は 、「木鶏」「千思万考」。世界の動きや変化を先取りする情報を提供する【気の経営(メルマガ編)】も発行中(無料)
言葉のスキルは人生で最も重要なもの
私たちの人生にとって「言葉」のスキルはもっとも重要なものの一つだ。
「人生の修行の中で最も難しいのは言葉の修行である」
こういうことをいう人もいる。
これは、少し考えてみると解る事なのだが、
・言葉が人間関係を難しくしている。
・言葉が要らぬ波風を立てたりする。
・言葉が言刃となり啀み合うようになる。
・言葉が独り歩きしてしまいあらぬ誤解を受ける。
・たった一言の言葉の解釈の違いでこじれてしまう。
私たちが直面するほとんどの問題は、言葉から生まれてしまうのだ。
では、なぜこんなことが起こってしまうのだろうか。
言葉は自分の為でなく他人の為にある
これは、ほとんどの人が持っている言葉について大きな勘違いが原因なのだ。誰もが、発する言葉は自分の為と思っているが、じつは、言葉は、他人のためにあるのだ。自分の為ではない。
まずここをしっかりと認識しておくことだ。
そもそも、自分の為だけであれば言葉は発する必要などない。言葉を発した瞬間に、言葉は自分のものから、他人のために存在するようになる。ここをしっかりと心においておくことである。
自ら発する言葉は、自分のものではなく、他人の財産となる。だから、相手に喜ばれるように使う必要があるのだ。言葉を発することは、他人の為に注意深くする必要があるのである。
しかし、私たちが言葉を発するときには、あまり、考えずに自分の欲するままに発している。この認識の間違いが、大きな問題を引き起こしてしまうのだ。
日本人同士でも言葉は伝わらない
私たちが通常話をする相手は、そのほとんどが日本人のはずだ。だから、聞いているほとんどの人が日本語を自在に操れると信じている。日本語であれば、何でも自由に相手に伝えることができると思っているのだ。
しかし、言葉で表現できるパーセントはそもそも少ないのである。例えば、世の中で一番よく知っているはずの自分、人生の中で何万回も鏡で見ている自分の顔。その熟知している顔を言葉で正確に表現してみればいい。どれだけ正確に伝えられるだろうか。
誰もが言葉を自在に操れると信じている。そこに不便さを感じることもない。しかし、そこに多くの問題が起因しているのだ。
自分の顔すらも正確に伝えられない言語能力とはいったい何なのだろうか。私たちが言葉を自在に話せるというのは、じつは大きな誤解なのだ。
言葉は3割しか伝わっていない
私たちが行っている日常の会話ですら、
「少ない言葉」
「限られた単語」
「同じような表現方法」
これの繰り返しに過ぎない。
実際には、言葉はほとんど通じていないのだ。
例えば、頭の中で考えている内容が100%だとすると、それを言葉にすると80%が限界だといわれている。これを他人が聞いて理解できる限界は、70%だといわれる。これを次の人に伝えようとすると言葉にするときにまた80%となり、これを聞いた人が理解できるのはさらにその70%になる。
たとえば会社などでよくあるシーンだが、部長から課長に、そして課長から部下に伝達する場合にどうなるかというと、
(部長)✕ 80%⇒(課長)✕ 70%=56%
(課長)56%✕80%⇒(部下)✕ 70%=31%
つまり、部長が考えていることを部下が理解できるのは3分の1だけである。
しかも、これは最大限の能力と注意力を限界まで発揮した場合であって、通常の生活においてはもっと悪い数字になっている。
人は理解されないから、何度も伝えようとする。そうなると相手の反応はどうなるかというと、
「話を聞こうとしない」
「また始まったという受け止め」
であり、生理的に「嫌気」が体内から生まれ
「聞こうという意欲を低下させ」
「言葉の重みを消し」
「人としての重みを軽く」
こうした状態にしていくことになる。
さらに頭のいい人ほど、一つのことを異なる表現で話し、その趣旨を理解してもらおうと試みるが、かえってそれが、ますます理解度を下げていくことになるのだ。
多弁であることの弊害
人は多弁になればなるほど、相手の理解度は低くなり、さらに記憶度が薄くなり、人間としての重みを軽くしていくのだ。
古来より伝わる帝王学に、「黙養」という科目がある。
「1日黙して、一語も語らず。
3ヶ月黙して、一語も漏らさず。
3年黙して、一語も発せず」
つまり、話さない訓練だ。
古来より、人は多弁であることの弊害を知っていた。如何に語るかではなく如何に話さないかが重要なのだ。話すことを学ぶことは、じつは話さないことを学ぶということなのである。