「習い」と「稽古」と「工夫」
ものごとを学ぶには三つのことが必要である。その三つとは「習い」「稽古」「工夫」だ。円を書いて。その円周上にこの三点ををき、くりかえすのだ。どこまでも限りなく繰り返すことにより、単なる円から螺旋になって登って行くのことになる。「習い」と「稽古」だけではダメで自分の「工夫」がそこに現せなかったら自分のものとして生かせない。残念なことに、ほとんどの人がこの「工夫」をしようとしないのだ。(内田游雲)
profile:内田游雲(うちだ ゆううん)
ビジネスコンサルタント、経営思想家、占術家。中小企業や個人事業等の小さな会社のコンサルティングを中心に行う。30年以上の会社経営と占術研究による経験に裏打ちされた実践的コンサルティングには定評がある。本サイトの「運の研究-洩天機-」は運をテーマにしている。他にも、この世界の法則や社会の仕組みを理解し経営を考える「気の経営」を運営している。座右の銘は 、「木鶏」「千思万考」。世界の動きや変化を先取りする情報を提供する【気の経営(メルマガ編)】も発行中(無料)
心の修行をして世の中に平和を作る
「小才は、縁に出おうて縁にきづかず・・・
中才は、縁に気づいて縁を生かさず・・・
大才は、袖すり合う縁すら生かす・・・ 」柳生家家訓より
この言葉は、私の座右の銘にしているものだ。私は、この人生において、一番大事にしているのが人との出会いである。茶道の世界に、『一期一会』という言葉もある。今生の別れの茶という真剣勝負の心で接することだ。
柳生家の家訓といえば、剣の道の極意だが、それが、なぜ、「縁」なのだろうか?
武士の世界では、一度刀を抜いたら、殺るか殺られるかのどちらかである。まさに、命をかけた殺し合いだ。
殺人剣と活人剣という話を聞いたことがあるだろうか?
昔、柳生家の21世、柳生延春氏の文章を読む機会があった。ここで、その言葉を紹介しておく。
「最初は、身を守るために技術を高める殺人剣の修行から始まります。
修行のレベルが高まるにつれて、自分を磨き人を活かす活人剣の世界に入っていく。殺すのは人ではなく悪なのです。
悪を殺し、万人を生かすはかりごとが武士道です。柳生新陰流に無刀取りの技があります。
この技ができたのは、剣と剣を取り合って戦えば、一方が勝ち、一方が死ぬ。
もしくは双方が傷つき倒れる。それを、素手で白刃をとってやれば、取られたほうも取ったほうも無事で済みます。
双方無事です。これが、武道の目指す境地なのです。
兵と不祥の器であり、兵法とは平法です。 平法は自らの心を安らぎの世界に置き、心の修行をして世の中に平和を作る一助になることです。
武という字は、矛を止めると書きます。
刀剣は身につけるが、刀剣は使わない。
これが、武道の奥義なのです。」
兵は不祥の器とは、老子が残した言葉だ。
「兵は不祥の器、君子の器に非あらず」
(武器は不吉な道具であって、立派な人間が使うものではない)
初心忘るべからず
その柳生家の稽古における心得に『三摩の位』というものがある。これは、兵法の学習の三つを学ぶことだ。その三つとは「習い」「稽古」「工夫」である。
円を書いて。その円周上にこの三点を取り、くりかえすのだ。どこまでも限りなく繰り返すことにより、単なる円から螺旋になって登っていく。どこまでも、限りなく繰り返すことが大事なのだ。
柳生家の場合、上泉伊勢守以来の教えと技術が「習い」だ。私たちの人生においては、これは「ノウハウ」とか「知識」にあたる。
それを身につけるのが「稽古」だ。どんな、習い事の「稽古」でも一回こっきりということはない。何度も、何度も、繰り返すことを「稽古」という。
しかし、「習い」と「稽古」だけではダメで自分の「工夫」がそこに現せなかったら自分のものとして生かせない。残念なことに、ほとんどの人がこの「工夫」をしようとしないのだ。
それどころか、多くの人が「習い」で止まってしまっている。これでは、正直結果が出るわけがない。
しかも、柳生家の極意は言う。
「繰り返す」と
「稽古」と「工夫」を繰り返す
「習い」→「稽古」→「工夫」ときたら、また、「習い」にもどる。そうして、また何度もやってみる(稽古)。さらに工夫する。これで、結果が初めて出るのだ。大事なのは、「稽古」と「工夫」を繰り返すことだ。
あたかも螺旋階段を登っていくがごとく、繰り返していくうちに、知らず知らずのうちにレベルが上っていく。そして、いつか目指す境地へと到達できるのである。
あなたは、この二つをやる前にあきらめてしまってはいないだろうか。
世阿弥の言葉にも次のものがある
「是非、初心忘るべからず
時々、初心忘るべからず
老後、初心忘るべからず」
世阿弥は、およそ600年ほど前、「能」を大成した人物である。
何事であれ、最初の基本に戻ることが、重要な人生の極意でもあるのだ。そのためには、何が基本なのかを自分でしっかりと掴んでおく必要がある。
そして、これを掴むためには、やはり「習い」と「稽古」と「工夫」を「繰り返す」ことでしか身につかないのだ。