一緒の時間を楽しむ恋愛を目指そう

やりたい衝動に振り回されるな

中年世代を過ぎた男性の恋愛作法の一つに、本能的衝動に振り回されないということが挙げられる。つまり恋愛において、肉体的関係を目的にしないということだ。ある程度の年齢を積み重ねたはずなのに、セックスを目的にガツガツ女性を口説こうとするのは、傍から見ていても、あまりにもみっともなく映る。肉体的関係は、あくまで結果であって目的ではないのだ。(内田游雲)

profile:内田游雲(うちだ ゆううん)
ビジネスコンサルタント、経営思想家、占術家。中小企業や個人事業等の小さな会社のコンサルティングを中心に行う。30年以上の会社経営と占術研究による経験に裏打ちされた実践的コンサルティングには定評がある。本サイトの「運の研究-洩天機-」は運をテーマにしている。他にも、この世界の法則や社会の仕組みを理解し経営を考える「気の経営」を運営している。座右の銘は 、「木鶏」「千思万考」。世界の動きや変化を先取りする情報を提供する【気の経営(メルマガ編)】も発行中(無料)

女性の獰猛さを感じる瞬間

中年世代を過ぎた男性にオススメの恋愛作法の一つに、本能的衝動に振り回されないということがある。つまり恋愛において、肉体的関係を目的にしないということだ。

もちろん、お互いがそれを求める時には、情動のまま、快楽を求めていっても構わないが、やはり中年を過ぎてからの恋愛は、円熟し本能的衝動からも自由な恋愛であるべきである。

そうはいっても恋愛の極致とは、やはり、男と女が二匹の雄と雌になることだ。理性をかなぐり捨てて、肉体同士がぶつかり合う姿は、ある種の格闘技と言っていいだろう。そして、この場合の勝者は必ず女性となり、男はいつも、敗者の悲哀を感じざるを得ないのだ。

女性というものは、優しく美しい形をしているが、だからと言って、中身まで優しいとは限らない。柔らかく力が弱くできているから、生き延びる為にはかえって内側は獰猛にできている生き物である。

カマキリは、交尾のあと、雌は雄をむしゃむしゃと食べてしまうというが、ベッドに裸で横たわる女性からの視線は、自分がこれから食卓に乗せられるという恐怖感を私は覚えてしまうのだ。

確かに、お互いが惚れた相手とのすべての行為は最高のものになる。これは間違いない。しかし、この惚れるということを愛情であると勘違いしてはいけない。それは、一つの情動であっても、愛情ではないのだ。

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肉体関係は愛情の結果ではない

愛情というのは、男と女との一緒の生活を長続きさせる要素のようなものである。そこには、ある種の我慢強さが要求される。そして、どこか理性的な分別が存在するのだ。

性的な行為というのは、本来、爆発的な情動の結果である以上、こういった分別のかけらが存在することは、快楽から遠ざかることになってしまう。

中年を過ぎてからの恋愛は、哀しいかなこうした分別が身に付いてしまっている。だからこそ、中年世代を過ぎてからの女性の愛し方というのは、敢えて自ら情動の海に溺れる行動ともいえるのだ。

しかし、情動に溺れるが、どこかに一片の理性を残しておいて、完全に溺れないようにする余裕がある。断崖絶壁から死を覚悟して海に自ら飛び込むようなものだが、救命胴衣をつける一片の理性は残しておくのだ。

快楽を他の部分へと広げていく

そもそも、中年を過ぎてからの肉体関係は、それまでと全く違う面を見せることになる。それは、自分の性的能力の衰えを自覚し始めることで、快感を射精のその一点から、少しずつ全体へと広げようと自然と意識することにある。つまり、オスとしての能力が劣ってしまうので、快楽を他のところで代替しようとする行動となる。

恋愛とは基本的には、繁殖行為である。

しかし、中年を過ぎてからの恋愛には、この意味があまり存在しない。肉体的関係は、あくまで結果であって目的ではないのだ。そこまでに至るプロセス、つまり、会話や食事を楽しみ、一緒にいる時間を楽しむことが目的になってくるのだ。

言い換えれば食事や一緒にいる時間そのものが性的行為といっていい。もちろん、そこには、皮膚と皮膚、粘膜と粘膜が触れ合う麻痺するような快感は存在しない。では、何を快楽とするかというと、女性からの尊敬のまなざしや、自己重要感の充足といった、精神的快楽がその中心動機となる。

こうした精神的快楽は、肉体的な快楽より弱く、じわじわとしか感じられないものだが、その分だけ持続的に快楽が続く側面があるのだ。

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恋愛は女性という山を登る行為

恋愛とは、たとえれば、富士登山のようなものだ。麓には、いろいろな植物が繁茂し、多くの異なる風景があるのですが、いざ頂上に近くなると、ごつごつした岩しか見えなくなり、登るのに一苦労することになる。

若いうちは、ひたすら頂上に上ることだけを考えて全力で登るのだが、年齢を重ねるにつれて、だんだん、麓の風景を楽しむ余裕ができ、むしろその麓の美しさのほうが好ましく思えてくるものである。

どうせ頂上に行けば、同じような岩だらけのごつごつした荒れ地しか見えなくなるのだから、ゆっくりと、麓の景色を楽しみ、美味しい空気や花のにおいを嗅ぎ、そこでゆっくり過ごせばいいのである。そして、気が向けば、頂上へ向かえばいいし、途中で嫌になったら引き返せばいい。無理に頂上へ行くことに、大した意味はないと感じれるようになっていく。

これが、性衝動に任せない中年を過ぎた男性の恋愛作法である。

ある程度の年齢を積み重ねたはずなのに、セックスを目的にガツガツ女性を口説こうとするのは、傍から見ていても、あまりにもみっともなく映る。

【参考記事】:

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